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始まりの場所。終わりの場所。
 目覚めたそこは、わたしの知らない部屋だった。目をこすって、部屋を見回す。白を基調としたその部屋は、病室か何かを思わせた。どうやら一人部屋のようだ。しかし、ここが病室だとするならば、どうしてわたしは病室なんかに寝ているのだろう。白い天井を見つめながら、その答えになりそうな記憶を引っ張り出そうと試みたが、サッパリわからずじまいだった。わたしの記憶は、プランが死んだ翌日の、学校へ向かう通学路、そこでプッツリ途切れている。
 ベッド脇のサイドテーブル。その上に置かれたデジタル時計は、午後の二時半を示していた。
 何もしなくていい。何も考えなくていい――。わたしは、生まれたての赤ちゃんだ。右も左もわかりはしない。きっと、お父さんかお母さんが、赤ん坊のわたしを迎えに来てくれるだろう。そして彼らが、この世界の色々を、わたしに教えてくれるのだ。だから、そのときまでは、意味の与えられていないこの時間を楽しむことにしようじゃないか――。
 そうして、しばらくウトウトしていると、誰かが部屋に入ってきたようだ。
 そこにいたのは、白衣を着て、首から聴診器をぶら下げた、オカマだった。お父さんでもお母さんでもなかった――。彼(彼女?)は、ニッコリとわたしに微笑む。
「涼理ちゃん、目覚めたのね。気分はどう?」
 彼は、部屋にあった折りたたみ式のイスに腰掛けた。わたしも急いで身を起こす。
「はい、とてもいいです。あの、わたしは……?」
 わたしは、色んなことに困惑しながらも、とりあえずそれだけを口にした。
「ここは病院。涼理ちゃんは一昨日の昼、気を失って倒れたのよ。覚えていない?」
 わたしは首を振り、否定の意を示した。彼は少し、真面目な顔になる。
「涼理ちゃんはね、日射病、それから体調不良もあったのでしょうけど、それで倒れてしまったの。そのときに、コンクリートの地面に頭を打ちつけてしまったのね。そのあと近くの病院に運ばれたのだけど、幸い大事には至らなかったみたいで、こっちの病院に移されたのよ」
 と、彼は説明を行った。そうか、わたしは――。
「わたしは、いつまで入院するのですか?」
 わたしが聞くと、彼はウーンと考え込んだ。
「そうね、二週間前後といったところかしら。経過を見ながら判断しましょう? 涼理ちゃんは、せっかくの夏休みだけれど……。ここもけっこう悪くないところよ」
 なるほど、二週間か――。しかし、夏休みの予定など、皆無に等しいわたしだった。家で過ごそうと、病院で過ごそうと、そこに大差はないと、わたしは思った。
 彼はそれから、ここでの入院生活の過ごし方について、ザックリと説明を行った。どうやら彼が院長で、もう一人スタッフを加え、基本二人で病院を回しているらしい。わたしの他に、何人か入院している人がいるということもわかったりした。
 そうした説明のさなか――。彼は、唐突に何かを思い出したようで、アッと大きな声を上げた。わたしは、ひどくビックリした。というか、怖かった。
「ご、ごめんなさい。自己紹介をしていなかったな、と思って。わたしは山本。涼理ちゃんのお父さんとは、古い友だちなのよ。ちなみに名前は、賢治っていうの」
 あ、賢治なんだ、とわたしは思った。

 山本さんは、かわいらしく手を振りながら、退室していった。
 ふーっと息を吐きながら、わたしはベッドに倒れ込む。小さなベッドではあったけど、わたしはそこに、めいっぱい大の字になってみた。
 入院か――。
 わたしは、退屈に埋め尽くされた毎日からの解放に、ささやかな喜びを感じていた。わたしは自由だ。いずれは、ここの生活にも慣れるだろうけど――。
 それでも、初めて目にするこの風景は、わたしにとって嬉しいものに違いなかった。


 扉を開けると廊下に出る。白い壁に、白い床。窓から差し込む日光がその白色に反射して、わたしは眩しさに目を細めた。廊下はさほど長くなく、五、六の扉が並んで、そこで廊下は折れている。
 わたしは窓に近づいて、滑りの悪い網戸を、若干強引に開けた。どうやらここは二階みたいだ。見下ろしてみると医院の庭。樹木や花の色彩が、わたしの目を楽しませる。庭の向こうには、わたしの知らない町が見えた。未知の風景。
 それにしても暑いな――。網戸を閉めつつ、わたしは思う。廊下はともかく、自室にもエアコンは見当たらなかった。扇風機はあったけど、それで二週間耐えられるだろうか。日頃エアコンに頼りっきりで、体温調整機能の弱まっているわたしとしては、なかなかハードな環境だった。
 廊下を歩いて角を曲がると、階段があった。飾りっ気のない階段を下りていく。一階に下りると、ロビーらしき空間が広がっていて、わたしはそこのソファーに腰掛けた。
 扇風機が、きしむような音を立てて回っている。それに、外から聞こえる蝉の声。聞こえてくるのはそれだけで、ここは静かだ、とわたしは感じた。
 ボーッと、窓の向こうの緑を見つめる。窓の向こうに見えるのは、医院の庭だろうか。今日は風があるようで、緑がユラユラ揺れている。嵌め殺しの窓ガラスは、マメに掃除をしていないのか汚れていて、外の世界をボンヤリと歪めていた。
 すると、わたしの後方で、人の動く気配がした。振り向くと、そこには背の高い青年が立っている。松葉杖を突いていて、シンプルながらも品のある服装をしている。ちなみにわたしは、起きたときに着ていた患者服のままだ。なんか恥ずかしいな。着替えてくればよかった――。
「こんにちは。もしかして、新しく入院したっていう子かな?」
 わたしは頷いた。彼は、満足そうに笑って、松葉杖を突き突き進んでくると、正面のソファーに腰掛けた。
「僕は、谷川。ここで入院してるんだ。君の名前は?」
「楯川です。よろしくおねがいします」
 頭を下げる。
「楯川ちゃん。下の名前は何て言うの?」
「涼理って言います。涼しいの「涼」に、理論の「理」……」
「涼理ちゃんか! いい名前だね! おれは俊介って言うんだ。つまらない名前だろう?」

 わたしは、色々なことを彼と話した。この病院のこと、山本医師のこと、好きな本のこと、学校のこと――。彼は、相手の話をうまく引き出すこと、そしてその内容に対して、適切なリアクションを適切なタイミングで返すことに長けていて、そのために、わたしはついつい色んなことを話してしまった。自分が、人との会話を楽しめている。そのことが、わたしにとっては新鮮であり、とても嬉しいことだった。普段は、会話するわたしを冷めた目で眺めるだけの〈私〉が、会話を我が事として楽しんでいた。
 そういった瞬間を、わたしは大切にしなくてはならない。
 〈私〉と外側の世界との、ありうるただ一つの接点――。


 谷川さんと別れた。自室に戻ろう。
 階段を上って、二階の廊下へ。時刻はおそらく四時か五時ぐらいなのだろうけど、夏の日没は遠く、廊下は日の光に満ちていた。そうして廊下を歩いていると、とある一室から、わたしを呼び止める声――。
 扉は開け放たれている。そこにいたのは、上半身を起こしてベッドに座る老人だった。
「財布を落としてしまったのだ。すまないが、拾ってはもらえないだろうか。ご覧の通り、体の自由が効かなくってな……」
 ベッドの脇には、革の財布が、これ見よがしに置いてあった。老人の体には、点滴だろうか、何本も管が刺さっていて、確かにこれでは動けない。わたしは財布を拾い、それを彼に手渡した。その財布は、何が入っているのか知らないが、やけに厚くて、重みがあった。
「ありがとう。お嬢ちゃん、見ない顔だね。新しく入ったのかね?」
「はい。今日のお昼頃、ここで目を覚ましました」
 そうかいそうかい、と彼は笑った。ちょっと話に付き合ってくれないか、と彼は言う。とりわけやることもなかったから、わたしは部屋の折りたたみイスに腰掛けた。
「ヒマでヒマで仕方がないんだ。手がまともに使えないから、本を読むことすらままならない。できることと言ったら、こうして人と話をすることぐらいだ」
「それは、大変ですね……」
 心の底からそう思った。
「ついこの間までは、毎日忙しく仕事をして、充実した生活を送っていたんだ。企業のトップにまで成り上がり、日本の一企業に過ぎなかったその会社を海外進出へと導いた。部下にもよく恵まれていた」
 彼は、かつての栄光を語り始めた。虚空を見つめて。
「成功するためには、色々なことを知らねばならない。本を読むこと、それから人と話すことだ。お嬢ちゃんは、将来は何になりたいんだね?」
 そう聞かれて、わたしは戸惑う。
「わたしは、まだ自分の将来のこととか、わからないんです」
 すると、彼は少し不満げな顔をする。
「ふむ……。お嬢ちゃんは、まだ若いから仕方ないのかもしれないが、目標を決めるのは早いほうがいいと、相場は決まっているものだ。なぜならば、それを決めるのが早ければ早いほど、そのための準備に割ける時間が増えるからだ」
 なるほど、彼の言っていることは正しいと思った。しかし、今のわたしは、今を生きることだけで精一杯だったし、それに、社会の一員となって働く自分の姿など、とてもじゃないけど想像できなかった。
「だが、そんな君のために、一つ面白い話がある。動物と人間の「知覚」の話だ。動物の知覚は、その動物の果たすべき目的と密接につながっていて、決して切りはなして考えることはできない。例えば、ダニの知覚は、明度・におい・温度の三つだと言う。ダニにとっては、子孫を残すという目的のために、これ以上の知覚は要らないのだ」
「そうなんですか……」
「うむ。しかし、人間の知覚というのは、ダニとは比べものにならないほどに、豊かなものだ。そして、豊かである代わりに、果たすべき明確な目的というのを持っていない。だから人間は、自分が何のために生きるのか、迷い続けなくてはならない」
「わたし、ダニで良かったかも……」
 すると彼は、口を大きく開けて笑った。肺あたりが弱っているのか、その笑い声は少々かすれているような気がした。
「だが、悲観する必要はない。迷うということは、その先に可能性が残されているということだからだ」
 わたしは、口をつぐんだ。それは喜ぶべきことなのか、疑問に思ってしまったから。
「お嬢ちゃんが、まだ自分の人生の目的を持っていないのも、当たり前のことなのだ。それは誰もが、自分で探さなくてはならないものなのだからな」
 と言って、彼は笑った。わたしは――。
「あなたの人生の目的は、何だったのですか?」
 わたしは、そのように聞いてみた。彼は、少し回答に詰まったように見えたが、こう答えた。
「仕事で成功を収めること。それから、良い部下に恵まれること。それが、わたしの目的だった」

 老人は、立ち上がるわたしの手を取って、一枚の千円札を握らせた。また話しにおいで、と笑いながら。
 気付けば、もう夕暮れ時だ。わたしは自室の窓を開けて、暮れゆく町を眺めていた。
 あれが、自ら掲げた目的のために日々を邁進してきた人間の行き着く果てだ。果たして彼は幸福だったのだろうか。そして今現在、幸福なのだろうか。すべての目的は達せられ、あとは来たるべき死を穏やかに待つ。そんな心境でありうるのだろうか。
 人間は、生物的に生きているからといってそれだけで満足できる生き物ではないと思う。目的が必要だ。
 しかし、何を目的としたところで、終わりのときは訪れる。
 ならばせめて、穏やかにありたい――。
 わたしは、紙ひこうきにした千円札を、夕日に向かって投げ放った。小さな紙ひこうきは飛ぶはずもなく、すぐに地面に落下した。


 すっかり太陽も没したから、わたしは食堂へ向かうことにした。
 ――と、その前に、服を着替えることにする。お父さんが持ってきてくれたのか、部屋には、わたしの服があった。わたしは、休日も制服で過ごすことが多くて、あまり私服を持っていない。悩んだ末、制服でいいかなと思い、わたしは制服に着替えた。
 一階にある食堂の扉を開ける。初めて見る顔の二人が、夕食の準備をしているようだ。突っ立っているのもアレなので、声を掛ける。
「あら、涼理ちゃん! お腹空いてるでしょう? すぐできるからね」
 どうやら彼女は、山本医師の奥さまらしい。フレンドリーだ。けっこう年配の気もするが、とても若く見える。わたしたちが話しているのを聞いて、もう一人のお姉さんもやってきた。
「はじめまして。私は、南って言うの。よろしくね、涼理ちゃん!」
 南さんもフレンドリーだった。大学生なのだと言う。
「一週間ぐらい前から入院しているの。別に大した病気とかじゃないんだけどね」
 料理を受け取りながら、南さんは話す。
「この時間になったら、料理がここのウォーマーに並ぶから、好きなときに食べてね。お箸はここにあるよ」
 と、食事の色々を教えてくれた。奥さんは、一人分の食事を持ってどこかへ行くようだ。
 わたしは、南さんを見ていた。美人だなぁと思う。足とかスラッと長くて、なんか羨ましいな。
 すると、わたしの視線に気付いたのか、南さんは笑った。
「涼理ちゃん、肌きれいだね! それに髪もサラサラ。羨ましいなぁ」
「そ、そですか?」
 逆に、羨ましがられてしまった。
「涼理ちゃんは、彼氏とかいるの?」
「いないです」
「そっかぁ。じゃあさ、クラスで好きな子とかは?」
 なんか、恋バナ始まってしまった――。
「わたし、そういうの苦手で……」
「そうなんだ。でも、きっと大丈夫だよ! 私も、昔そうだったんだ」
 そうなのか――。ちょっと安心している自分がいた。と、そうこう話しているうちに谷川さんがやってきた。
「お、涼理ちゃん。制服なんだ。かわいいね!」
 わたしは何も言えなくて、口をパクパクさせていた。谷川さんは南さんに用事があったらしく、二人は食堂を出て行った。
 ほどなくして奥さんが戻ってきたから、わたしたちは二人で夕食を食べた。料理はとても美味しくて、わたしはサバの味噌煮をたくさん食べた。


 眠れない夜。わたしは、いつも考える。電灯のスイッチを押すみたいに、パチっと意識を消せたらいいのに、と。
 わたしはいつも、どうやって眠っていただろうか。少し考えてみるものの、それはサッパリわからなかった。
 眠りに落ちるその瞬間を、わたしはどうしたって知ることができないのだ。だから、これまで十何年と生きてきて、何千回と眠ってきたにもかかわらず、自分がどのように眠りに落ちるのかということについて、わたしはまったくの無知だった。
 ゆえに、眠れない夜はくり返される――。
 眠れない夜。わたしは、自らの死を想う。ここで死んでしまいたい、と。
 あまりにも眠れない夜に自殺を考えることが多かったから、眠りたいという欲求と、死にたいという欲求、根っこは同じなのではなかろうかと思い始めた。人間誰しも、心のどこかで、「無」への憧れを持っているんじゃなかろうか。眠りたいと思うこと。死にたいと思うこと。どちらも同じ、無への憧れから生じているんじゃなかろうか。
 それに加えて、わたしは生きることにあまり執着がない。
 生きることに執着する人は、たとえ無への憧れが心のどこかにあったとしても、長く生きることを欲するだろう。だけど、そもそも欲しないのなら? わたしに何らかの欠陥があるとしたら、その「欲しないこと」は、その中でも最たる欠陥ということになるだろう。体をもってこの世に生まれてきたにもかかわらず、わたしには生きようという意志が欠如していた。
 どうしてこうなってしまったんだろう。どこで歪んでしまったんだろう。それとも生まれながらにして、わたしは欠陥だったのか。「人はいつでも変われる」なんて言うけれど――。
 何度も「変わろう」と試みたのだ。そしてその度に、「お前は変われなどしない」という結論を受け取り続けてきた。取り返しのつかないこと。変えがたいこと。そういったものは、やはりあるんだ。
 そんなわたしに、「それで?」と夜は問いかける。それでお前はどうするのだ? 明日のために、十分な睡眠を欲するのか? お前は、その気になれば今すぐにでも、自殺を選ぶことができるわけだが――?


 光の中、わたしは目覚めた。ここはどこだ、と始めは思ったが、やがて昨日のことを思い出した。ここは、わたしの病室だ。
 ゆっくりとベッドから起き出す。時計を見ると、もう一時近く。午前いっぱい、寝て過ごしてしまったようだ。普段のわたしであれば、そんなことはめったになかった。休みの日でも、早起きをして図書館へ向かう。それは、自分がそうしたいからという理由ではなく、親の前では良い子でいたいという思いからだった。ダラしない子だと思われたくなかった。とはいえ、いざ着替えて一階に下りてみると、家に誰もいなかった、なんてこともしょっちゅうだったけど。
 わたしは着替えを終えた。とりあえずは食事をとろうと思って、わたしは自室を出た。

 一人で食事を済ませたあと。わたしは、病院内をうろついていた。
 ロビーの近くで、小さい中庭を発見した。きれいに芝が生えていて、真ん中には一本の木が植えられている。見上げれば、医院の壁で四角形に切り取られた青空。日の光は差し込んでいるが、涼しいほうと言えるだろう。気持ちの良い場所だった。
 それからわたしは二階へ上がる。二階には、わたしたちの病室の他に、山本医師の個室や、治療室らしき部屋があった。いかにも病院らしい、白い壁、リノリウムの床。階段があって、こちらは上にも行けるようだ。わたしは、階段を上っていった。
「屋上だ……」
 医院の屋上。屋上からの景色はいいもので、わたしは何となく気分が良かった。この町には、緑が多い。
 わたしは、この病院を好ましく思い始めていた。空間が、わたしの体になじむのだった。
 病院――。それは、正常でない人間を正常に戻すための施設だ。社会には「正常」というモデルが存在していて、そこから外れてしまった人間は、「悪」や「無能」と呼ばれたり、何らかの病名をつけられたりと、様々なやり方で「正常」と区別される。あまりにも異常な人間が、正常な人間の中に混じっていてはならない。その「異常」は伝染し、尊い「正常」を揺さぶるから。
 異物であるわたし。欠陥であるわたし。わたしがいるにふさわしい場所は、病院か、あるいは牢獄のように思われた。
 ここは、わたしのいるべき場所なんだ――。そう考えると、心がとても軽くなった。
 今日は、医院の誰にも会っていない――。ひょっとしたら、この世界にはわたししかいないのではないかと、そのようなことを考える。
 人のいない世界。わたしすらも、あいまいになる。


 ロビーに下りると、谷川さんの姿があった。ソファーで何か読んでるみたいだ。
 自分から話しかけるのは苦手だったし、読書のジャマをしてしまったら悪いとも思ったのだけど、わたしは勇気を振りしぼって、彼のところへ向かっていった。どうしてだろう。
 近くのソファーに腰掛けると、谷川さんは、わたしに気付いたようだ。
「こんにちは。何、読んでるんですか?」
 谷川さんは、本の表紙を見せてくれた。
「あ! わたし、この人の小説、とても好きなんです!」
「お、ホント? いいよね! といっても、まだ読み始めたばかりなんだけど」
 と言って、彼は笑った。去年あたり、何かの賞を取った作家だ。近頃とても気に入っていて、よく図書館で借りて読んでいたから、彼がその作家の本を読んでいると知って、彼の存在がとても近しいもののように感じられた。
「さっき、近くの本屋で買ってきたんだ。あまりにもヒマだから、本でも読もうかと思ってね」
「近くに本屋があるんですか?」
 わたしは、若干前のめりになりながら聞いた。とても本が読みたかった。
「うん。歩くと少し掛かるかな。地図でも描いてあげようか?」
 と言って、地図を描き始める谷川さん。わたしは、地図描く彼を見つめていた。背の高い彼が、小さなメモ用紙に、チマチマ地図を描いていく。その様子がおもしろくて、わたしはちょっと笑ってしまった。
「そういえば……。ここら周辺、あまり治安が良くないらしいよ。良くないウワサが色々あってね。だから、あまり遅い時間に出歩かない方がいいかもしれない」
 と、彼。そうか、気をつけよう――。
「そういや、ここにも不良少女がいてね。知ってる?」
「いえ、初耳です」
「涼理ちゃんと同い年ぐらいだと思う。何かとトラブルを起こすんだよ。今はどうしていないのかと言うと、入院中なのに病院を抜け出して、行方不明中なんだ。面白い子だとは思うけどね」
 不良少女か――。あまり関わり合いになりたくないなぁと、わたしは思った。
「何でかサッパリなんだけど、おれ、あの子に嫌われてるんだよなぁ。何かしたつもりはないんだけど……」
 と、呟く谷川さん。
「谷川さんも、誰かに嫌われたりとかするんですね」
「そりゃあ、嫌われもするよ!」
「なんか、谷川さんは、誰からも好かれそうに見えるから」
 それを聞いて、谷川さんは笑った。
「そんなことはないよ。でも、そうだな……。おれのそういうところが、彼女の気に障るのかなぁ」


 翌日。谷川さんの言っていた例の本屋で、小説を二冊購入した。本屋の近くには川が流れていて、わたしは買った本を片手に川沿いを歩いた。少し暑かったけど、いい風が吹いていて、とても気持ちが良かった。
 病院に戻ると、奥さんが、ロビーでお茶を飲んでいた。涼理ちゃんもどうかと誘われたので、ご一緒する。谷川さんもやってきて、わたしたち三人、マッタリお茶を飲んでいた。
 そこへ、山本医師と南さんがやってきた。あの老人を除けば、これで全員集合だ。南さんが、谷川さんのところに走り寄る。谷川さんの耳元で、小さく何かを伝えているようだ。
 一瞬、奇妙な間があった。
 驚いた様子の谷川さん。谷川さんの反応を待つように、ジッと彼を見つめる南さん――。
 谷川さんは、何かを決心した様子で立ち上がると、南さんの手を取った。
「ここを出たら、一緒に暮らさないか? 結婚しよう!」
 谷川さんの言葉を聞いて、南さんは泣き出した。その南さんを、谷川さんは、空いている方の腕で抱きしめた。
 わたしは――。あまりにも唐突な展開に、置いてきぼりをくらっていた。困惑しながら周りを見ると、山本医師も、奥さんも、ニコニコ笑って二人を祝福しているようだ。
 つまり? 二人はそういう関係で、これから結婚しようと、そういうことなのか?
「よかったわね、南ちゃん」
 二人に歩み寄る山本医師。南さんは泣きながら頷いて、今度は山本医師と抱き合った。
「今、何ヶ月なんですか?」
 と、谷川さん。南さんは、谷川さんを見つめ、指を三本立てた。そうかぁと、感慨深げな谷川さん。
 そうか――。わたしは、ようやく理解した。南さんは子を授かったのだ。妊娠が発覚した南さんは、谷川さんにそれを告げ、それをきっかけに結婚しようとなったわけか――。
「二人とも、おめでとうございます!」
 わたしは、精一杯の笑顔で、二人を祝福することにした。ちょっと照れくさそうにしながらも、二人はありがとうと応えてくれた。
 二人はとてもお似合いだ。だって二人は、思いやりに満ちあふれた、素晴らしい人間なのだから。
 こうしてまた一つ、この世に新しい命が誕生する。二人の愛をいっぱいに浴びて育った子どもは、きっと幸せな人生を送るだろう。そしてその子の笑顔は、二人を幸せにするだろう。それは、とても自然なあり方。自然な幸せ。おめでとう――!
 わたしは、二人の存在が眩しかった。そして、二人の笑顔を見たあとに、ふと自分のことを考えると、いかに自分がくだらない人間かということに気付かされる。
 わたしは生涯、子を生むことはないだろう。生まれてきたことが、悲劇の幕開けに他ならないのだし、そのように考えている人間が、どうしてそのような悲劇をくり返すことができるだろう。たとえ、わたしが子を生みたいと願ったとしても、それは身勝手なエゴというものだろう。
 この悲劇は、わたしで終わりだ。それが、ちっぽけなわたしが、誰かのためにできること――。
 そのようなことを考えていたら、とてもじゃないけど笑顔でいられなくなってしまって、わたしはせめてこの場の幸せを崩すまいと、一人自室へ戻っていった。
 階段を上りきったところで、激しい吐き気に襲われた。トイレにかけ込む。便器にすがりつきながら、わたしは何度もえずいている。頭の中で揺れる脳。吐き戻すことはなかったが、目蓋からは、涙が染み出る。


 どうやら、寝てしまったようだ。わたしは目を開けて――。
「うわぁっ!」
 目の前に、わたしを覗き込む二つの眼があった。わたしはビックリして、ベッドの下に転げ落ち、体を床に強打した。
 わたしと同い年ぐらいの女の子。この子が例の不良少女か? わたしは、痛む腰をさすりながら、心持ち警戒を行う。
「あはは、ごめん。そんなにビックリするとは思わなかった」
 彼女は、何かツボに入ったのか、お腹を抱えて笑っている。よくわからない――。身に着けている洋服からは、活発そうな印象を受ける。が、その割には、けっこう値の張りそうな服の気がした。
「なんで、わたしの部屋に? というか、カギ掛けたはずなのに……」
 という、わたしの言葉を聞いて、彼女はニヤリ、窓を指さす。窓の外には、太めのロープが一本、プラリと下がっていた。
「まさか、窓から……?」
「正解! 新しい子が来たっていうから見に来てみたら、カギが掛かっているんだもの」
 彼女は笑っている。無茶をするなぁ――。
「あなたのこと、みんな心配してたみたいだよ?」
 と、わたし。彼女は、わたしの座っているベッド、その端っこに座る。
「心配なんてしちゃいないよ。病院には、わたしへの管理責任があるから、オカマ医師が私のこと探すのはわかるけど……。あのバカップルに関しては、病院が静かになってうれしいなぁ、ぐらいのもんじゃない?」
「あはは」
 わたしは、とりあえず笑っておいた。


 用事を思い出したらしく、彼女は走り去っていった。不良と聞いてはいたけれど、わたしのイメージしていた不良とは、ちょっと違うようだった。わたしは、ほんの少しばかり、彼女に興味を抱いていた。そういえば、名前を聞くのを忘れてしまったな――。
 窓の外を眺める。ぶら下がったロープの後ろに見えるのは、ちょっと雲行きあやしい空。今日は一雨降るかもしれない。
 ――と、ロープが突然左右に揺れて、スルスル屋上へ上っていった。ちゃんと後片付けはするタイプの不良なんだなと思って、わたしは一人笑っていた。
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