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振り返れば一本道。他の道なんてありましたか?
 涼理へ
 まずは、別れの挨拶もしないで出ていったこと、謝りたいと思います。ごめん。
 涼理と顔を合わせたら、きっともう一日だけ、いっしょにいたいと思ってしまうだろうから。
 この頃は、体の調子が割と良かった。でも、いつそれが悪化するか分からない。自分が苦しんでいるところを涼理に見せたくなかったし、心と体が元気なうちにさよならしたいと思いました。身勝手だよね。こんなとこまで連れてきて。本当にごめん。
 短い間だったけど、涼理と過ごした日々は、とても楽しいものでした。こんなに満ち足りた気持ちなら、死ぬのも怖くないと思える。私の人生、捨てたものではなかったなと思えます。涼理のおかげだよ。
 医院で涼理と出会うまで、私はくさっていたんです。自分が死ぬと分かっていたから、何をする気も起きなくて、人と関わりたいとも思わなくなってた。楽しいことが増えれば増えるほど、死ぬとき苦しくなるだろうって思ったから。それに、誰かと仲良くなりでもしたら、別れるときにその人のことを傷つけることになるって思ったから。
 涼理は屋上で、プランっていうネコの話をしてくれたよね。覚えてないかな。そのとき涼理はこう言ったの。「いずれ死ぬことは分かってた。分かった上で、いつ死んでもいいと思って仲良くしていた」って。
 そのことが、私に一つのきっかけをくれた。涼理と仲良くしたいと思った。
 本当は、涼理の言葉、やさしさに、甘えたかっただけなのかもしれない。こうして、別れの時が、涼理を傷つけているのかもしれないのに。

 寿命を生ききるという選択肢もありました。だけど私は、自ら死ぬことを選びます。
 生まれたことは受身だったから、せめて自分の死ぬときぐらいは自分で決めたいという思いがありました。それに、体が苦しくなってくると、まともな判断ができなくなる。だから、今のうちに決めました。
 いつだったか、心の自由の話をしたね。私は、自分の意志を信じます。動物と、私たち人間を分けるのは、その意志です。自我というものに目覚めていながら、自らの命を終わりにできる。これが意志の力であり、私はその力を証明したい。なんてことを思ったりします。
 でも、こんなことを書いてるやつが何言ってるんだと思うかもしれないけど、私は涼理に、生きてほしいと思います。
 涼理は考えがちだから、一人で色々悩んで、苦しんだりするんだと思います。考えることは悪くないことだと、私も思う。だけど、上手に考えなきゃダメだ。涼理はまだまだ若いんだから(そういう私も若いんだけど)もっと色んなことを知るべきだし、もっと他人に頼るといい。と、私は思うよ。
 未来のことなんて分からないけど、きっと未来は良くなるよ。そうやって、上手に物事考えていけたらね。
 だから、生きててほしいと思います。死んだって、私には会えないんだからな。

 最後に。
 私は、涼理に出会えて最高に幸せでした。おかげで私の人生は、いい人生だったと胸を張って言えます。ありがとう。
 涼理のこれからの人生が幸せなものであるよう、心から願っています。
 それでは達者で!

 あなたの親友 蓬山史佳








 幸福に生きる。そのために必要なものとは何か。
 それは「無知」だと思います。
 知らない人間は幸せです。たくさんのことを知れば知るほど、人生は重たくなってゆき、人生そのものの重さに、わたしは潰れてしまいます。
 一度知ってしまったら、それを知る前には戻れない。知るということは不可逆です。だから今では知覚が怖い。目蓋を強く瞑っても、耳を閉じることはできない。わたしを汚すデータが怖い。
 ……知らないことは幸せだと分かっていても、本当のことから目を逸らすことのできない人間がいます。わたしもたぶん、そうなのだ。「好奇心」だなんてカワイイものじゃなく、もっとなにか病気のような。
 そんな中で、わたしは気がつきました。それは、「知ってしまうことで、人を死に至らしめるような真実がある」ということ。わたしはそれを「三つの自死因」と名付けました。
 これからそれを書いていきたいと思います。内容は、以下の三つです。

 一、無に向かう存在
 二、二つの代替性
 三、自由なき〈私〉


 一、無に向かう存在
 人間は、日々刻々と死に向かっています。生きていれば、必ず死が訪れる。それは確かなことだと思います。どうしたらいいのか。受け入れるしかありません。
 そして、わたしは思いました。いずれ死んでしまうなら、機会を見つけて死ななくてはならないのだと。
 何故か。考えてもみてください。生きたいということを願い続けた人間が、最終的にどうなるか。体のどこかが悪くなります。次第にベッドで過ごすことが多くなります。入院することになるかもしれない。生きたいという思いと、死ななくてはならないという現実にひき裂かれて、苦しみの中に死んでゆくことになるでしょう。そのようなことを思うと、わたしは胃の辺りが重くなります。そして、そんなふうになるぐらいなら、自ら死んでいったほうが、ずっと幸せだと思うのです。
 ……意識があるのは、苦しいことだと思います。何故、意識などというものがあるのか。そんなもの、なければ良かったのに、ということを、わたしは何度も思いました。
 無というのは、救いです。人は日々、無を求めているのです。例えば、睡眠をとること。我を忘れて、楽しい何かに熱中すること。そういったことは、遠回りな「無」の実現なのです。
 それでも自分が存在している限り、完全な無はあり得ません。それを完全に実現する方法は、死ぬことだけしかないのです。
 自殺。怖いです。痛いんじゃないか、苦しいんじゃないか。そういうことを考えると、やはりわたしはためらいます。でも、ずっとこのまま生きるのも苦しい。「命がなくなる瞬間は、快楽物質がたくさん出るから大丈夫だ」と聞いたこともありますが、あまり励ましにはならない。
 どうしてわたしは生まれてきたのか。どうして意識が生じたのか。
 百年そこらで死んでしまうというのに。死刑であることが決まっていて、執行がいつだかも分からないのに、どうして笑って生きられる? そんなふうに思うから、平気な顔して笑っている周りのみんなが恐ろしく、不気味で不気味で仕方がない。
 わたしの人生に価値はあったのだろうか。
 何か、目的のようなものがあったのだとしたら、それは「無」の実現だ。
 無の実現。それが、人間の最終目的です。

 二、二つの代替性
 世界にとって、わたしは必要のない存在なのではないか、というような感覚を、ずっと抱いて生きてきました。
 わたしは、あまり友だちがいませんでしたし、家族とのつながりも不確かでしたが、そういうことではなく、もっと本質的なところで、自分の必要のなさというのを感じていたのです。
 その感覚とは何だったのか。わたしは考えました。そして思いついたのは、「わたしは代わりの利く存在である」ということ。わたしは、代替の利く存在である。よってわたしは必要ない。
 そしてわたしというものは、二つの意味において「代わりの利く存在」なのだと思いました。それを「二つの代替性」と名付けます。
 一つ目は、楯川涼理の代替性です。
 人は様々な役割を割り振られて、社会の中に位置しています。誰かの友だちであったり、何らかの仕事をしていたり。その人が、突然いなくなってしまったら、どうなるでしょう。
 始めはみんな、困惑します。あの人がいなかったら仕事が回らなくなるだとか、大切なあの子がいなくなってしまっただとか。悲しむ人もいることだろうと思います。
 でもやがて、人は落ち着きを取り戻します。そして、消えた人間の作った穴を、別の人間が埋めていきます。それは誰でもいいのです。
 近しい人間を思ったとき、その人間が、代えの利かない人間だというふうに思ったりもします。でも、本当にそうでしょうか。本当は誰でもいいんです。近しい存在が誰かいなくてはならない。だけどそれは誰でもいい。それが、一つ目の代替性です。
 長年仲良くしてきた親友や、大切な家族が、掛け替えのない存在に思えるのは何故か。それは、その存在の中に、自分の姿を見るからではないでしょうか。自分とその人との関係。こんなことがあったなという記憶。それが、存在の消滅とともに失われて、あたかも自分が弱まっていくような気持ちに襲われるからではないでしょうか。
 いわば、一種のナルシシズム。みんな自分が大好きなんです。
 他人は、本質的には、代替の利く存在です。
 そして二つ目の代替性。それは、〈私〉の代替性です。
 〈私〉とは、自我のようなもの。それも、自我一般ではなく、わたしが楯川涼理だと言えるような根拠となっているものです。
 わたしはこの世に一人です。そのように、わたしには思えます。何故かといえば、ここから世界が見えているから。わたしが目を瞑れば、世界は真っ暗になるからです。
 「私というのは一人だけ」。わたしがそう思っているように、他の人も、そのように感じているのだと思います。これは推測です。他人の心を、わたしは覗けないからです。
 どういうわけかは分かりませんが、じっさいに楯川涼理の体から、わたしの世界は開けている。それは、わたしの主観からしてみれば、疑う余地のない事実なのです。
 そして、その〈私〉は、他人にとって代替の利くものだということに気がつきました。
 わたしにとって、楯川涼理は特別な存在です。他人の痛みと、楯川涼理の痛み。それらは重みが違います。何故か。それは〈私〉というものが、楯川涼理から開かれているからです。
 でも、それと同じ理由で、他人にとってはわたしの痛みなど些末なことです。わたしが何を思い、何を感じていようと、それは他人には知りえないことです。彼らにとって問題になるのは、わたしの行為だけ。
 だから例えば、わたしと史佳の自我が入れ替わってしまったら……。わたしは自分を史佳だと思う。わたしは史佳だから、史佳らしく(自分らしく)振る舞う。行動は何も変わらない。よって誰も、その入れ替わりに気付かない。
 要するに、他人にとって必要なのは、わたしの身体とその行動なのであって、決して〈私〉が必要とされているのではない、ということです。わたしにとっては、楯川涼理が〈私〉であるということは、とてつもなく大切なこと。だけど、他人にとっては、そんなことはどうでもいい。もしかしたら、中身なんかなくても、ちゃんと動けばいいのかもしれない。そう思う。
 たとえわたしが必要とされても、それはわたしの身体の話で、〈私〉は必要とされていない。別の〈私〉でもかまわないという意味で、〈私〉は代替が利く。これが、二つ目の代替性です。
 ……楯川涼理の代替性。そして〈私〉の代替性。
 この二つの理由のために、わたしは代替の利く存在でした。本当の意味でわたしを必要としている人間など一人としていないのだと、わたしは知りました。
 もちろんそれは、他人にとってのことです。わたしにとっては、わたしは大切な存在です。唯一わたしだけが、わたしを必要としている。
 でも、唯一自身に存在価値を与えうるこのわたしは、これ以上「生きたい」などと思えないのです。だから、すべての人が、わたしの生を求めていない。
 ……これが、二つ目の自死因です。
 本当は、もっと誰かに必要とされたかっただけかもしれない。

 三、自由なき〈私〉
 肉体に宿ったこの〈私〉は、自由のない囚人です。間接的なあり方でしか外の世界とつながっておらず、やりとりも一方的で、ただただ知覚を受け取るだけ。そんな〈私〉のどこに価値があるのでしょうか。
 わたしは色々なことを考えます。だけどさっきも書いたように、そんなことは他人にとってはどうでもいい。他人にとって重要なのは、わたしがその人に対して有益な行動をなす存在であるか、というところ。心の内はどうでもいい。
 人は、自ら考え、行動をなす。わたしはそう思っていました。考えがちなわたしでしたが、考えることで行動が変わり、人生はより良いものになっていくのだと信じていました。でも今は、それが信じられないのです。
 心は知覚を受け取るだけ。心から身体へ何かを働くことはできない。それが、科学の導く答えだと思います。
 心もまた、物理法則で説明できる。原子と原子のやりとりで、わたしの良く分からない「心」なるものが生じてくる。
 理性で身体をコントロールできる? そんなのは、まやかしです。そう思わせることこそが、脳のすぐれた働きなのです。
 ……でも、一つ気に掛かること。史佳の死です。
 史佳は、自らの意志を信じて死にました。自らの意志で「死」を選ぶことに、一つの意味を見出しました。どうして史佳は、意志の自由を信じることができたのだろう。それがわたしには分からない。
 史佳は「実感」という言葉で説明した。実感とは何だろうか。
 わたしはそれを「信仰」だと思う。心の底から信じられる信仰があれば、人はそのために死んでいける。史佳もまた、そうであったのだと、わたしは思う。
 では、わたしの信仰とは何か。
 わたしが信じるのは「運命」です。
 自由なんてなかった。世界のすべては、宇宙の始まりに定められた。もちろん、わたしの行動も。思考も。
 だからわたしにできるのは、その運命を受け入れることだ。受け入れてしまえば、もう何も怖いことはない。抗う必要もない。すべてをありのままで良しとできる。
 意志の自由を求めたわたしにとって、〈私〉に自由がなかったことは、とても苦痛なことでした。それこそ、一つの死因になるぐらいには。
 でも、何もかも受け入れます。
 自殺もまた定めです。


 自殺の理由は色々です。誰かが自殺をすれば、人はその理由をあれこれ推測するものですが、たいていの場合は的外れです。
 では、自殺を行う本人にはその理由が分かっているのか、と申せば、それも否だと思います。本人でさえ、本当のところは分からないのです。
 ……わたしは、自殺をしようと思っています。
 これまで「三つの自死因」について書いてきました。それが、わたしを死に至らしめる原因なのだと思いました。
 でも今は、良く分からなくなっています。
 小さな小さなイヤなことが、わたしの中に蓄積して、それがもう破裂しそうなのかもしれない。
 もういいです。考えることにも疲れてしまった。
 ただ、一つ書いておくと、わたしの自殺は、史佳の死とは関係ないということです。この自殺は、決して史佳の後追いではない。
 史佳がいずれ死んでしまうことは分かっていた。健康であろうと病気であろうと、自殺をしようと寿命を全うしようと、そんなことは些末なことだ。わたしはわたしのタイミングで死を選んだ。そのことに、史佳の死は関係ない。
 ということを、一応ここに記しておきます。
 ……どこかで鳥が鳴いている。湖が美しいと思う。
 旅館でこれを書いています。書き終えたら、気の変わらないうちに行動に移すつもりです。
 最後に思うのは両親のこと。最近は、少しぎくしゃくしていたけど、ここまでわたしを育ててくれた。恩を受けてばかりで、何も返すことができなかった。ありがとう、ごめんなさい。
 身勝手だとは思います。自殺をするのは身勝手だ。だけど、これ以上耐えられないのです。世界がこんなにも苦しいから、わたしは自分自身の幸福のために、死を選ぼうと思うのです。罵られたってかまわない。誰にも理解されなくていい。わたしはヒッソリ死んでゆきます。
 わたしは幸せでした。わたしは自分の幸福のために、最善を尽くしました。
 色んなものにありがとうを言いたい。
 明日も明後日もずっとずっと、ゆっくり眠っていられることを思うと、わたしはとても嬉しいのです。
 今はすべてが愛おしい。

 楯川涼理
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