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同化と異化の力学について。
 わたしは目覚めた。窓から差し込む白い光。コンクリートの天井に蛍光灯が見えていた。
「起きたようだな……」
 わたしの傍らで、悪鬼のような表情の、暗い男が立っていた。冷たい目でわたしを見下ろしている。
 ――怖い。
 わたしはとうとう、地獄かどこかへ来てしまったのだろうかと、一瞬本気で思ったりした。
「目が覚めたのなら、早く身を起こすがいい」
 わたしは急かされ、起き上がった。いかにも安そうなベッドがキシり、と音を立てた。
「私はミヤフジ。お前を拾った。お前、名を何という?」
「わたしは……」
 少しためらう。わたしは状況を整理した。
 どうやら、わたしは自殺に失敗したらしい。わたしは湖に入り、入水自殺を図ったのだった。しかし浜に流れ着き、そして男に拾われた。おそらくそういうことだろう。
 わたしは名前を言いたくなかった。自殺を決めたそのときに「楯川涼理」は死んでしまったから。ここにあるのは名無しの死体。家に帰りたくなかった。病院もゴメンだ。だから――。
「すみません。分かりません……」
 ウソをついた。
「分からない? お前、記憶がないのか?」
「はい……」
 普段よりウソをつく習慣のないわたしは、ウソがバレやしないかと内心ビクビクだった。しかし男は納得したらしく、少し気味が悪いほどに、何度もくり返し頷いていた。
「そうか。自分の家も分からないんだな?」
「はい」
「自分が誰なのか、知りたいか?」
 男はわたしを凝視していた。わたしは少々考えて――。
「どうでもいいです」
 と言った。男はなにか面白かったようで、クックッと渇いた笑い声を上げた。
「なら、しばらくここで働かないか? 農作業の手伝いだ。ここで働いてくれるなら、寝食ぐらいは保証しよう。どうだ」
 ここで働く? わたしが?
 どうして――?
 でも、どうでもいいか。なるようになれ。そう思って、わたしは男の誘いを受けることにした。
「分かりました。やります」
「クククッ、そうかい。では、早速明日から働いてもらおう。朝の九時に、裏の畑に集合だ。遅れるなよ。仕事は夕方十七時までだ。よろしくな」
 わたしは去っていく男の背中を見つめていた。全身、怪しげな黒い服。高身長でやせ細ったその男――。
「そういえば、お前の名前を決めなきゃな。名前がないのはとても不便だ」
 男は天井を見上げたが、すぐに笑って口を開いた。
「A子にしよう。お前の名前は、これからA子だ」



 そうして、一週間ほどが過ぎ去った。正確には分からない。この家にはカレンダーがなかったし、そもそも日付などという概念は、もうわたしには関係ないものだって気付いたからだ。肝心なのは、グルグルと回り続ける時計だけ。今が何時であるかには、気を払わなくてはならなかった。ミヤフジが時間にうるさいからだ。
 今日もまた、わたしは畑に向かっている。降り注ぐ太陽光は、貸してもらった麦わら帽子ひとつでは防ぎきれず、身体をジリジリ焼いていく。暑い――。
 でも、ここの景色はキレイだ――。
 畑に至る道。草葉の緑。少し行くと湖が見える。
 だから思った。行き着くところに行き着いた。ここが最果ての土地であると。死後の世界なんてものがあったとしたら、きっとこんな場所なのだろうと。
 これから先の、未来の可能性なるものを、少しも考えることができなかった。わたしの未来はこの世界で閉じてしまった。そんな気がした。わたしはこのままここで働き、そして少しずつ、自分の存在が透明になっていくのだ。そんな未来しか見えなかった。
 心はスッカリ死んでしまった。分かれてしまった身体と心。心だけが〈私〉だったのだ。その心は、自殺を決意し、生きる意欲を根こそぎ放棄したそのときに、いっしょに死んでしまったのだと思う。
 もう、ここにあるのは、ただの抜け殻――。
 だから、楽しかろうと苦しかろうと、そんなことわたしには関係ないんだ。苛烈な太陽は体力を奪った。夕方頃には、足はガクガク言っていた。動きの良くないわたしのことをミヤフジは何度も罵った。殴りもした。しかし、どれもどうでもいいことだ。
 毎日毎日、わたしは農作業に勤しむ。
 これからも、ずっと――。
「おいA子、遅いぞ!」
「えっ、でもまだ九時じゃ……」
「お前、大して動けもしないクセに、メシだけいっぱし食いやがって。少しは早めに来て貢献しようとか思わないのか」
「すみません……」
 畑をズンズン進んでいくミヤフジの背中をわたしは追った。遅れないよう小走りに――。
 今日も、一日が始まる。
 何を考える必要もない。与えられたやるべき仕事を、一つ一つ坦々と、こなしていくだけだ。


 ある日の夜。わたしはどうにも眠れなくて、自室に備え付けられた小さな机に向かっていた。蛍光灯の光の下、わたしはノートを広げて、一字一字と文字を書く。

 三つの自死因
  一、無に向かう存在
  二、二つの代替性
  三、自由なき〈私〉

 わたしは今でも、三つの自死因に誤りがあるとは思わなかった。しかしこれらがある限り、わたしは真に生きられない。ずっとこのまま。死んでいるかのような生。
 それは――。
 どうなのだろう。わたしは何を望んでいる?
 本当は、自殺が成功していれば良かったんだ。しかし、一度失敗してしまった今、自殺は恐ろしいものへと変わった。自殺に伴う痛みと苦しみ。また失敗して、死にきることができなくて、そんなことを延々くり返すと思うと、それは本当に生き地獄だと思った。
 やるなら次は成功させなくちゃいけない。でも――。
 確かな決意。行動する意欲。そういったものが欠けていた。抜け殻のわたし――。
 だから当面は、あるがまま、なすがまま。それでいいじゃないか。そんなふうに思ったりした。
「おい、まだ起きているのか。明日も仕事だ、分かっているのか?」
 ノックもなしに、ミヤフジが部屋に入ってきた。時計を見ると夜の三時だ。こんな時間だったとは。
「一体何を書いているんだ」
「やめて!」
 わたしの必死の抵抗むなしく、ミヤフジはノートを取り上げた。ノートに並んだ文字列を訝しそうに眺めている。
「自死因。自殺か……?」
 ミヤフジはノートを投げ捨て、わたしの目を見る。
「そうか、お前、自殺をしたな?」
 ミヤフジの眼が怪しく光る。すべてを見透かされてる気がして、その気迫に圧倒されて、わたしは逃げるように頷いた。
「入水自殺か? ふん、本気で死のうとしていたのか、怪しいもんだな」
「本気だった。わたしは……!」
 黙っていれば良かったものを、つい反応してしまった。
「A子、お前、記憶があるな。そうだろう? 本当の名前は何という」
「名前は本当に覚えてない……」
「ふん、そうかい。じゃあ、その自死因とやらを話してくれよ。覚えているんだろう?」
 わたしは、ためらった。話す必要なんてどこにもない。
 でも、何よりミヤフジの眼が怖かった。ノーと言わせぬ圧力があった。だからわたしはポツポツと、自殺のことを話し始めた。

 そうして――。
 わたしは語り終えた。史佳のことは伏せたけど、わたしの自殺はすべて語った。ミヤフジは一層冷ややかな目でわたしのことを見下ろしていた。
「お前はバカだな。おまけに、自殺のひとつ、成功させることすらできない。どうしようもない出来損ないだ」
 ミヤフジから、なにか敵意のようなものが感じられた。それを受け止めることができなくて、わたしは彼から目を逸らした。
「お前が身勝手な人間だっていうのは正しいよ。自分の周りに殻を作って、内側だけキレイならそれでいい、外のことなんて知らないと、お前は言っているんだ。自分の世界に踏み込まないでほしい。それでいて、何もかもが分かりきってしまった自分の世界に希望が見出せないんだろう? 自業自得だ。お前のキレイな殻の中で、ひとり死んでいけばいいのさ」
 ――そうだ。
 そんな内なる声がした。そうだ、お前はクズ人間だ。ミヤフジの言っていることは全く正しい。そう思った。
 整ったものが好きだった。わたしは常々、秩序を求めた。自分の思うように動いてくれない色々は、カオスと断じて切り捨てた。殻の中の小さな世界。止まった死物に囲まれた、静かな世界。そこでわたしも「静止」したいと願っていたんだ。
「うっ、ううう……」
 涙が出た。何も言い返すことのできないわたし――。
「物事がうまくいかないから駄々をこねてる子どもと同じだ」
「ち、違うよ!」
 わたしは叫んだ。
「生きるか死ぬかの問題は、全人類の問題なんだ。死から目を逸らし続けた人間は、死の直前になってもがき苦しむことになる。ぐすっ。ミヤフジ、お前だって死ぬんだ!」
 ミヤフジは、わたしを睨む。
「そう、お前の言うとおりだ。誰しもみんな死んでゆく。しかし、少なくとも現に生きている人間はな、生きているというそのことによって自殺を拒絶しているんだ。死ぬと決めた人間は、もうこの世にはいない。お前みたいな半端者以外はな。だから、この世を生きる者にとって、お前みたいな存在は見ていてとても苛つくんだ」
「でも、どこかで無に憧れてる……」
「ふん、そうかもしれない。その憧憬は、自分というものをこえて世界とつながりたい想いでもある。しかし一方で、人は秩序を作り、それに感動を覚えたりもする生きものだ。お前にも分かるだろう。二つの欲求の中で、絶えず揺れ動いている。一方ばかり見て、どうしてもう一方を見ようとしない」
「でも……。わたしがどのように世界を見ようと、世界の動きは変わらない。心は物体に働きかけないから」
「くだらない!」
 ミヤフジは、わたしの腕を強く掴んだ。
「痛い……!」
「心も身体も自分なんだ。それを、心だけが自分だと思い込んで、心が肉体に働きかけない? 全くもってくだらない。痛いのは誰なんだ。お前だろう!」
 ミヤフジは、わたしを解放する。
「それもまた、一つの殻だ。心と身体を分かつ殻。そうして世界から閉じこもっている限り、お前はいつまでたっても世界と隔絶しているし、一人で死んでいく定めだよ」
 ひどい耳鳴り、頭が揺れた。
「うるさいうるさい! お前にわたしの何が分かるっていうんだ!!」
 ――ミヤフジは、煙草を取り出し火をつけた。ゆっくりと煙を吸い、ゆっくりと吐いた。たちまち部屋が煙くなる。
「……ふん、つまらないことで時間を使ってしまったようだ。お前、明日も仕事だぞ。遅れるなよ」
 そう吐き捨てて、出ていったミヤフジ。わたしはとにかく悔しくて、冷たい床に崩れ落ち、小一時間と泣いていた。
 ミヤフジは嫌いだ。大嫌いだ! できることなら言い返したかった。
 でも、できなかった。ミヤフジの言ってることは正しかったから。わたしはホントにクズだったから。
 そんな自分が悔しくて、わたしはひとり、子どもみたいに泣いていた。


 翌朝。気持ち早めに目覚めたわたしは湖の浜に座っていた。昨晩の、ミヤフジとのやりとりを思い返しながら――。
 心も身体も自分なのだとミヤフジは言った。そういえば、史佳もそんなことを言ってただろうか。
 心と身体を分けたのは、急勾配の坂道だった。毎朝の、学校へ向かう通学路。肉体的な苦しさを、心と別にすることで和らげようとした。そこから何かが狂い出したのだろうか。
 いや、心に重きを置いているのは、わたしだけではないのかもしれない。ネットなどの普及で、人は顔を合わせなくとも必要なコミュニケーションを行えるようになった。必要なのは精神。肉体の要らない時代なのだ。そんなことを思ったりする。
 ともかく――。
 心と身体を分かつ「殻」。ミヤフジはそんな言い方をした。
 肉体が、自分でないような感覚。透明な皮膜に包まれて、世界と隔絶している感覚。それも殻のためなのか。
 もとは一つだったこのわたしを、二つに分断してしまった「殻」。見えない境界。
 わたしにそれを壊せるかな、史佳――。
 夏の日差しにキラキラと、湖が輝いて見えている。静かな湖。わたしはそれを美しいと思った。
 もうすぐ九時になる。行かなくちゃミヤフジが怒るだろう。
 だけど――。
「帰ろうかな。わたしの家に……」
 わたしはゆっくり立ち上がった。
 生きることに希望を見出したわけではない。生きているだけで素晴らしいだなんて、どの口が言えるだろう。
 でも――。
 わたしは少し、見たいと思った。ちょっと先の、わたしたちの未来を。
 そうやって、死期を延ばし延ばしにして、この先ずっと生きていくのか? わたしの「死にたさ」は、その程度のものだったのか? 否定の言葉がチラついたけど――。
 自分の手のひらを見つめて、閉じたり開いたりをくり返す。
 これがきっと、わたしなんだ。
 そして、これが、意志だろうか――?
 遠く畑のあたりに、ミヤフジらしき人影が見えた。
 ここ一週間、彼から受けた仕打ちのことが思い出されて、身体が小さく震え出した。
 これは心か。それとも身体か。
 ――そんなこと、ひょっとしたらどうでもいいことなのかもしれないな。
 わたしは深く、息を吸い込み――。
「地獄に落ちろ! この、人でなしぃぃ――っ!!」
 叫んだ。
 放たれた声は、深い青色をした夏空に、吸い込まれて消えていった。
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