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冷ややかな、わたしの肢体と。
 鈍行列車に揺られている。ガタンゴトンという一定のリズムの反復に、わたしは身を委ねている。
 小一時間と、この電車に乗り続けていた。わたしは思う。これから先、どうなってしまうのだろう――。
 行き先は決まっていた。路線のことなど、調べに調べたつもりだったが、自信はなかった。電車に乗ったことが、あまりなかったのだ。
 いざとなれば、史佳に聞けばいいと、そう思っていたのかもしれない。だけど、「いざ」の場面になってみると、史佳はまったくアテにならないことが判明した。彼女もまた、ほとんど電車に乗ったことがなかった。
 ちゃんと目的地に辿り着けるか、という不安。だけど、不安の根源はそれだけではない。
 無断で病院を抜け出てきたこと。お父さんお母さんに心配をかけているかもしれないということ。それから、史佳の体調のこと――。
 先行き不安しかなかった。わたしは、対面座席の斜め向かいに座っている、史佳を見る。
 史佳は、頬杖をついて、窓の外の景色を眺めていた。いったい何を考えて――?
 この車両に入ってから、史佳はスッカリ黙り込んでしまった。重たい沈黙が、わたしたちにのし掛かっている。わたしの背中や周囲からは、子どものはしゃぐ声や、おじさんたちの釣りの話が聞こえてくる。わたしたちの空間だけが、何かをジッと待つように、息をひそめていた。
 史佳はこれから、どうするつもりなのだろう。海に行って、めいっぱい遊んで、それから――。
 彼女に「それから」があるのか、ないのか。それが問題だった。わたしの心配しすぎなら、どんなにいいことだろう。でも、本当にそうなのだろうか。
 史佳は死んでしまうんでしょ? わたし、実は、聞いてしまって――。
 その一言を口に出せれば、それで事は済んだのだ。だけど、この重苦しい沈黙のなか、口を開くことがためらわれた。何度も何度も頭の中で、言うべき言葉を推敲している。言ってる自分を頭に描く。だけど、すればするほどに、現実が遠くなっていく。一言、そのたった一言が、口に出せない。
 いずれ列車は、目的の駅に着くだろう。それまでにわたしは、聞かなくちゃいけない。
 聞けなかったら――。
 二人は無言で立ち上がり、ぎこちないままに、駅のホームに下りるだろう。そこからは海が見える。わたしが史佳の死に勘づいていることなど露知らず、史佳は無邪気にはしゃぐ。それをわたしは笑って見つめる。わたしはわたしで、史佳の病気のことなどまるで知らないといったふうに、無邪気に振る舞う。
 死期の近くなった彼女は、何やかんやと理由をつけて、わたしのもとを去るかもしれない。わたしたちは別れる。さよならも言えないままに――。
 そんなのはイヤだ。そう思った。だから史佳に聞かなきゃいけない。
 聞かなきゃいけないのに――。
「う、うぅ、ぐすっ……」
 涙が出てきた。感情が、わたしの中でぶつかり合って錯綜して、何かもう、よくわからなかった。
「えっ、涼理、どうしたの!?」
 史佳が、わたしの異変に気付く。泣き止まなきゃと思って涙を拭うも、波立った感情は落ち着くことなく、涙は止まってくれなかった。
 隣に史佳が座ったようで、その反動に、わたしの体が一瞬弾む。史佳が、わたしの背中をさすってくれる。そのことに、史佳のやさしさを感じて、史佳という存在の掛け替えのなさを感じて、わたしはもう、感情を制御できなくなってしまった。
 史佳。わたしの友だち、史佳!
 いなくなってしまうだなんて、そんなのイヤだよ! ずっとわたしの側にいてよ!
 わたし、一人はイヤだよ――!
 わたしは、もう前後左右わからなくなるぐらい泣いた。周りの乗客がザワついていたけど、そんなことはどうでも良かった。
 気付いたら、史佳の太ももの辺りにしがみついて泣いていた。史佳は黙って、ずっとずっと、わたしの頭や背中を撫でていた。

 そうして――。
 わたしは、ようやく落ち着いた。史佳の太ももに突っ伏している。
 涙やら鼻水やらで、悲惨なことになっていた。気恥ずかしさも手伝って、どのタイミングで顔を上げたものか、困ってしまった。とはいえ、いつまでもこうしてはいられないし、わたしはゆっくりと顔を上げた。
「ふみか、ごべん……」
 謝罪になっていなかった。
「ふふ、いいよ、気にしないで」
 史佳は、笑いを堪えていた。
 わたしは、手渡されたタオルを受け取り、顔を拭う。史佳もまた、濡れた太ももを拭う。なんか、とても申し訳なかった――。
「それで、どうしたのよ。いきなり泣いたりなんかして」
「うん……。なんか、とても不安になってしまって……」
 不安? 確かに不安もあるけれど、今はそんなことより、史佳に聞かなきゃいけないことがある。
「史佳は……」
「うん?」
「わたし、病院でおじいさんに聞いたの。史佳の病気は深刻で、長くは生きられないだろうって。史佳はわたしのこと、心配しすぎだって言ったけど……。本当のことを教えてほしいの。でないとわたし……」
 続く言葉が出てこなくて、フェードアウト。
 史佳はうつむき、何かを考えているようだ。少しの沈黙ののち、史佳は口を開いた。
「涼理には、本当のことを話すよ。私は、涼理の言うとおり、もう長くは生きられないみたいなんだ」
「うん……」
「ごめんね。ウソついて、連れ出したりして……」
「いいの。話してくれてありがとう……」
 わたしは、自分でも不思議だったのだけど、さほどショックを受けなかった。そう言われる覚悟は、とっくの昔についていたのだ。
「最後まで、楽しく過ごしていたかった。やりたいことは、全部やっておきたかった。昨日、ベッドで目覚めたとき、何かやり残したことはないかなって考えた。そのとき、涼理と海に行こうって話したことを思い出して。どうしても、行きたかったんだ……」
「うん……」
「本当にごめん。涼理は、病院に帰りたい?」
 病院に戻るか。それともこのまま、海に行くか。わたしの答えは決まっていた。
「行こうよ、海。死ぬかどうかなんて、関係ないよ」
 史佳の表情が、パッと明るくなった。
「ありがとう、涼理!」
 腰の辺りに抱きついてきた。今度は、打って変わって、史佳がわたしにしがみついている。
 史佳は、顔をわたしの制服にうずめたまま、聞いた。
「最後まで、私の側にいてくれる?」
「うん。そのつもりだよ」
 そう言って、わたしは、史佳の髪をそっと撫でた。


 夕暮れの湖は、静かにキラキラと輝いている。オレンジに染まった夏の空を、たっぷりと吸い込んで。
 やってきたのは海ではなく、湖だった。いったいどこで間違えたのか。
 二手に分かれて、宿を探すことになった。史佳と別れて、少し歩いていると、この湖を見つけたのだ。わたしは砂浜に座っていた。こうしてずっと。
 太陽は、山の向こうに隠れてしまった。じきに空も暮れるだろう。わたしは少し、体を震わせる。
 史佳は遠からず、わたしの下を去るだろう。だから、残りわずかなそのときを、わたしは大事に噛みしめよう。ボーッとしてれば、すぐに終わりが来てしまう。時間。客観的な時間。それが何だというのだ。重みのある一瞬間は、永遠よりも尊いものだ。
 今を生きることなんだ。この今を!
 未来のことばかり気にしていたら、今を貶めることになる。過去にこだわりすぎるのも同様だ。
 行為原則? より良く生きる? 大切なもの? 永遠――?
 今を生きるには余計なものだ。すべてすべて、捨ててしまえ! 一人が守れるものなんて、この腕に抱えられるものぐらいが限度なのだ。この今だけを抱いて、生きていくべきなのだ。
 そうして――。
 過去も未来も捨てたわたしは、今まで肩に乗っていた大きな重しを下ろして、軽やかな体を手にした気がした。
 静かな湖の、ささやかなさざなみ。遠く鳴いてる虫の声。少し暑くて、シットリと湿った肌――。
 そんなものに、ふと気が付いた。
 振り向くと、遠くで史佳が叫んでいる。わたしは立ち上がって、一歩一歩、砂浜を踏みしめていく。
 どの一瞬間も逃すまい。目に、心に、史佳の姿を焼き付けて、それを抱いて生きていきたい。
 そう思った。
 空が静かに暮れていく。


 部屋の窓ぎわの一角で、湖を眺めていた。こぢんまりとした机に、二つの籐椅子。湖を横目にくつろげるスペースがあったのだった。
 部屋でとった夕食は、とても豪華なものだった。二十品はあったかという品数の豊富さに加えて、どの料理をとっても手を抜いたところのないような、実に洗練された夕食だった。
 夕食をとったあとは温泉に向かった。浴場には、わたしたちのほか客はおらず、わたしたちは借り切り風呂を存分に堪能した。史佳はひどくはしゃいでいた。露天風呂もあって、そっちもすこぶる満足だった。夜風が肌に心地良かった。
 史佳は長風呂のようなので、わたしは先に上がってきた。そうして、旅館の浴衣に着替えて、こうして湖を眺めていたのだ。
 辺りで虫が鳴いている。夏の風は、やさしくわたしの肌を撫でる。夏の夜のにおいが、わたしの鼻孔をつく。
 季節や湿度などによって、空気のにおいは、様々な表情をわたしに見せる。どれも、わたしにとっては大切なものだったけれど、とりわけ夏夜の空気のにおいは、わたしの心を強く揺さぶり、締めつけるものを持っていた。
 子どもの頃、大切にしていたもの。それはもう失われてしまって、記憶だけが絆で、それは思い出すたびにすれていって薄まって、もうほとんど味のしなくなったガムのようなものなのかもしれないけれど、それでもわたしは、そんな記憶を大事に抱いていたかったのだ。長いような短いような、幼い日の夏休み。家族で川の字になって寝ていた、あの夏の夜。あの夏も、こうして虫は鳴いていただろうか。
 夏のにおいはどの夏も、似たようなにおいをしていた。これからも、そのようであってくれるだろうか。そうすれば、わたしはこの夏の夜のにおいを頼りに、あった夏の日の記憶をたぐり寄せて、抱きしめられるかもしれない。わたしは、肺一杯に、夜の空気を吸い込んだ。
 わたしは湖を見る。遠くにフチが見えるから、さほど大きい湖ではないのだろう。ポツリポツリと人の住む明かりが見えるけれど、木々が多く、湖の周囲は暗かった。虫の声を除いては、とても静かに感じるのも、木々が音を吸うのだろうか。
 湖は、海と違って穏やかだ。泳ぐことのできないわたしにとって、海は恐ろしいものだった。その荒々しさですべてを飲み込み、海の底へと引きずり込む。湖はもっと、死んだように穏やかだ。その、死体みたいな静けさに、わたしは親しみを感じるのだった。
 それに、海は潮くさいからなあ、と思って、わたしは一人で笑ったりした。史佳には悪かったけれど、わたしは、ここに来られて良かったと、心の底から思っていた。
 扉の音とともに、史佳が部屋に帰ってきた。わたしと同じ、浴衣姿。髪を、後ろでラフに縛っていた。
「おかえり」
「ただいま。電気つけないの?」
「うん、何となく。つけたかったら、つけていいよ」
 史佳は、電気はそのままに、敷かれた布団に向かっていった。部屋の真ん中に、布団が二つ、横に並んで敷かれていた。
「もう寝る?」
「そうだねー。涼理は、まだ寝ないの?」
「じゃあ、わたしもそろそろ寝ようかな」
 机のスタンドライトを消して、寝る準備を始めた。部屋は、月明かりに仄かに明るい。
「今日さ……。いっしょに寝てもいい?」
「え、どういうこと?」
 良く意味がわからなかった。
「涼理の布団で寝たい」
 そんなことを言い出す史佳。史佳の心理がわからない――。
「どうして……?」
「どうしてもこうしてもだよ。いいじゃん、何が減るでもないし」
 と、半ば押し切られるような形で、わたしたちは一つの布団で寝ることになった。隣で、空っぽの布団が、ジッとわたしたちを見つめている。
 何だかんだで、史佳は寂しがりなのだ。断る理由もなかったから、良しと考えることにした。史佳が望むなら、いいじゃないか。
 そうして、目を瞑って、眠気に身を委ねようとした矢先、腰の辺りに違和感を覚えた。浴衣の帯が解かれている!
「ふふふふ史佳!?」
 動揺。史佳の方に体を向けたら、史佳の体に触れた。史佳の体に――。
 史佳はもう、浴衣を着てないようだった。下着もつけていないようで――。


 史佳は動き、わたしの体に触れていく。肌と肌の接触。史佳の肌が熱い。
 わたしは、驚きに、声が出なくなっていた。何だろう。どうして、こんなことになっているのだろう。
「涼理の肌、きれいだね」
 と、ささやく史佳。わたしは、何とも言えない気持ちになる。喜べばいいのか? ここは喜ぶべきところなのか?
 心臓が、今にも口から出そうなぐらい、ドクドクと鳴っていた。こんなに活発に動いているのに、わたしは緊張してしまって、体をまったく動かせない。
 だけど、ふと史佳の胸に触れたとき、史佳の心臓の鼓動を知った。史佳の心臓もまた、ドクドクと高鳴っているように思えた――。
 この心臓が、遠からず、止まってしまうのかもしれなかった。そして二度と動かなくなる。この力強い鼓動に触れていると、それはとても信じがたいことだった。心肺の弱った老人の体ではない。こんなにも、瑞々しい命が、ここに脈動しているのに!
 しかし、いずれ死んでしまうだなんて、そんなことはどうでも良いことだ。今ここに史佳がいる。そのほかに、いったい何を望むというんだ。
 わたしは史佳と抱き合っていた。いなくなってしまう史佳のことを、触れ合うことで、わたしの体に刻みつけることができるみたいに。
 たまに、わたしは客観された。いったい何をやっているんだと、冷めた言葉がチラついた。だけど、眠かったからなのか、それともこんなところまでやってきてしまったという異界の感覚があったためか、何にせよ、わたしはわたしでいられた気がした。
 わたしたちは、何を語り合うでもなく、肌と肌とを押しつけ合った。長いこと、長いこと――。
 皮膚という境界が、明確にわたしたちを区別していた。どんなに触れ合ったところで、わたしたちは隔たった個人なのかもしれなかった。
 それでも、わたしたちはまったく孤独ではなかった。体温を交換したり、ほんの少し、体液を交換したりもした。それはささやかだけど、何か確かなつながりだった。
 外がほんのりと明るくなってきた頃に、眠りに落ちたようだった。
 久しく感じていなかった安心に抱かれて、わたしは眠りに溶けていった――。


 やさしい光に包まれて、目を覚ました。
 時計を見ると、午後の三時を回っていた。とても深い眠りだった。
 わたしの隣で、史佳が寝ている。あまりに顔が近かったから、わたしはドキリとしてしまった。安らかな寝息を立てていて、そんな史佳を見ていると、心が和んだ。
 昨日の夜を思い出す。漠然とした記憶。現実にあったことなのか、それともただの夢だったのか、記憶だけではあいまいだった。
 だけど、わたしたちは現にこうして、裸でいっしょに寝ているのだった。これはもう、まごうことなき現実だった。
 わたしは布団を抜け出して、いそいそと制服に着替える。少し散歩でもしようかと思い、わたしは部屋を出た。史佳と顔を合わせるのが、気恥ずかしかったというのもある。
「こんにちは! 昨晩は、良く眠れましたか?」
 部屋を出て少し行くと、仲居さんに出会った。
「はい。ちょうど今、起きたところで……」
「あはは、そうでしたか!」
 元気いっぱいの仲居さんだ。「ところで」と、彼女は続ける。
「お二人はもう、神社のお祭りには行きましたか? いま、近くの神社で、お祭りをやっているんですよ!」
 わたしは、首を横に振った。初耳だ。
「出店などもありますので、良かったら是非!」
 ――とのことだった。
 わたしは早速、自室に戻って、史佳を起こした。
「史佳、史佳!」
「んあ……?」
 細目を開けて、眩しそうにこっちを見た。
「おはよう」
「おあよう、涼理」
「今日ね、神社でお祭りやるらしいんだ」
「おー、お祭りかー。いいね、行こうか」
 と、史佳。寝起きだけど、乗り気みたいだ。
 ちょっと空を見ていたら、史佳は再び眠りに落ちた。
 窓ぎわの椅子に向かって、わたしはそこで、静かに湖を眺めていた。湖の上には青い空。蝉が夏を叫んでいる。
 長かった幼い日の午後が、そこにはあった。過去のしがらみも、未来への憂慮もない、幼き日々の――。
 夏の空は、なかなか暮れない。

「おぉ、けっこう人がいるもんだなぁ」
 と、史佳は言う。ここら一帯、随分ヒッソリしていたから、こんなにも人が来ていることに驚いた。
 二人で祭りにやってきた。大きな石の鳥居をくぐると、出店が奥まで並んで見える。
 浴衣の人が多く見られた。史佳も、浴衣を着たいと言っていたが、そんなすぐに用意できるはずもなく、しぶしぶ断念したのだった。
「さてさて、どこから回ろうか。涼理は、行きたいところとかある?」
「うーん。まぁ、適当に回ればいいんじゃないかな」
「おー、わたあめだ! わたあめ食べる?」
 史佳は、店へと走っていく。
 一人、残されたわたしは、周囲を見回した。四方八方、笑顔が見える。子どもたちのはしゃぐ声。大人ですら、童心に返ったみたいに、祭りを楽しんでいるように見える。
 そんな中で、わたし一人が浮いているような気がした。冷め切った顔で、祭りをこうして眺めているわたし――。
 出店の光、つらされ揺れる提灯の明かりが、わたしを非日常に誘う。朦朧とする意識の中で、〈私〉ということが強固になっていくような――。
「すずりぃ、なにボーッとしてるの」
 目の前に、わたあめがあった。どうやら、わたしのわたあめみたいだ。
「ごめん、なんか、クラクラしちゃって……」
「意味わかんないやつだなぁ」
 笑って、史佳はグングン進んでいってしまう。わたしは史佳を追いかける。
 非日常的な空間に放り込まれると、ここが現実なのか夢なのか、分からなくなって不安なのだ。夢のように、この現実が、パッと消えてなくなってしまうのではないか。そんな気持ちに襲われて、わたしは何か、わたしと現実をつなぐ綱を、求めたのだと思う。
 わたしは、先を歩く史佳の、空いた左手を握った。握ったあとから、わたしは何をしてるんだろうと思った。心臓の高鳴る音を聞いた。
「ど、どしたの?」
 振り返る史佳。
「迷子になると、いけないと思って……」
 わたしは少し恥ずかしくて、史佳の顔を見ないままに、先へ先へと歩いていった。
 しつこくわたしをからかう史佳に、うるさいなぁとか言いながら、わたしたちは手をつないで、人ごみの中に混じっていった。


 漠然とした不安とともに、目を覚ました。隣を見ると、いっしょに寝ていたはずの史佳がいなかった。
 史佳は行ってしまったのだろうか。わたしは冷静にそう思った。トイレだとか、ちょっと散歩に行ってるだけだとか、そういった可能性は考えなかった。
 わたしは、史佳が寝ていた場所に寄る。冷え切った空虚。史佳のにおいが、まだそこには残っていた。
 どうすることもできなかった。なんぴとも、死には抗えないのだ。残りわずかなそのときを、史佳と二人で楽しくすごした。やれることはやったはずだ。だけど――。
 この悲しさは何だろう。どうして涙が出るんだろう。
 わたしは、史佳の残り香を抱きしめながら、声を殺して泣いていた。

 そのあとのことを、わたしは良く覚えていない。
 机で、史佳の遺書を見つけた。
 それからわたしはフラフラと、旅館の外へ出ていった。
 どのぐらい、歩いていたのか。
 夕暮れの赤だけが、強く記憶に残っている。
 耳元で語りかける、男の声。彼の指が、わたしの体のあちこちに触れる。
 快楽にすがりたいと思った。結局、それは虚しいだけだった。
 泣いたり、わめいたりした。男はどこかへ去っていった。
 それから。
 それから、わたしは――。
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