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少女は坂道を上る。くり返しくり返し。
 わたしは、世界の異物だった。
 世界は、わたし――「楯川涼理」の目からしか見ることができなくて、その点において、わたしという人間は他の人間とまったくもって異なるのだった。他の人間もまた、わたしと同じように、その目を通して世界を見ているのだと人は言う。特別なのはキミだけじゃない、と。だけど本当にそうなのだろうか。一体全体、何を根拠にそんなことが言えるのだろう。わたしは、みんながわからない。
 誰かと話しているとき、町中を歩いているとき、わたしは自分を強く意識してしまう。そうすると自分のことで頭がいっぱいになってしまって、口も体もまともに動かなくなってしまう――。
 わたしの悪いところは、考えすぎてしまうことだ。考える〈私〉がもっと静かであったなら、わたしは本能に従って、もっと人間らしく振る舞うことができただろうに。それをジャマしているのが、「楯川涼理」という人間に住まう〈私〉であった。いっそ植物か何かに生まれてくれば良かったのにと、つくづく思う。動物や植物、彼らは決して迷うことがなく、果たすべき目的のために常に全力だ。そういった生き方に、わたしは憧れを抱いていた。
 しかしその一方で、考えなしの人間に嫌悪感を抱いてしまう自分もいた。力ですべてを解決しようとする人とか、えっちなことばかり考えている男子とか。動物的に生きることがいいことだって思っていても、どこか不愉快に思ってしまう自分がいるのだった。
 どんな生き方を目指したらいいんだろう。どうして植物みたいに、子孫を残すという目的のためだけに生存することができないんだろう。何のために、わたしはこんなにも悩まなくちゃいけないんだろう――。そういうことを考え始めると、頭の中はグチャグチャに絡まってしまって、わたしは身動きが取れなくなってしまうのだった。
 それでも、思考停止はイヤだったから。考えすぎは良くないだなんて、そんな言い方で納得することはできなかったから。だからわたしは考える。その先に、人間という動物のあるべき姿があると信じて――。
 そんなことを思い思い、わたしは歩いていく。夏の日の朝の通学路――。

「おはよう、プラン!」
 学校へ向かう道すがら、わたしはネコのプランの姿を見つけ、挨拶をした。
 プランは黒色のネコだ。首輪をつけていないから、たぶん野良猫なんだと思う。わたしが小学生ぐらいの頃からずっと知り合いなのだけど、誰かの家で飼われているような様子はないし、みんなもアイツは野良だと言っている。
 ちなみに「プラン」という名前は、わたしがつけた。本当は違う名前なのかもしれないけど、わたしはわたしで勝手にプランと呼んでいた。
「なんか汚れたね。お風呂入ってないんでしょ」
 プランは水が嫌いだから、自分で水を浴びたりはしない。誰かが洗ってやらなければ、どんどん汚くなっていく。昔、プランがあまりに汚れていたから、見るに見かねて洗ってあげたことがある。自分がこれから洗われることを察したプランは、もの凄い抵抗を見せたりした。そんなことを思い出す。
 そんなこんなで、たっぷり十分は触れあっていただろうか。わたしは名残惜しくもプランに別れを告げて、学校へ向かうことにした。少し歩いて振り返る。もうそこに、プランの姿は見当たらなかった。そういうドライなところとか、わたしはとても気に入っていた。
 プラン。わたしの大切な友だち。

 それから少し歩いて行くと、長い坂道が見えてくる。わたしの通学路には急勾配の長い長い坂道があって、わたしは学校に通うために、毎朝それを上らなくてはならなかった。
 坂道を見上げる。両側を住宅に挟まれたその坂は、本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるぐらい静かだった。そういえば、あまり住人が出入りしているのを見たことがない。
 坂の上には、夏の青空が広がっている。夏の日差し、それに四方八方から聞こえる蝉の声。わたしはクラクラしながらも、重い足を一歩一歩と前に進めていった。毎朝行われる坂上り、とりわけ夏の暑い日においては、まるで一種の苦行であった。
 ツラいのは、苦痛に意識的であるからだ。だから、この坂を上るとき、わたしはなるべく自分が「楯川涼理」であることを忘れようとした。自分の体を客観的に見ることで、苦痛が少し和らいでいく、そんな気がしたから。
 楯川涼理が坂道を上っている。楯川涼理の足は坦々と歩みを進めていく。楯川涼理のこめかみを、一滴の汗が流れて落ちる――。
 その様子を、〈私〉は無感動に眺めていた。


 黒板を叩くチョークの音が、坦々と教室に響いている。外からは、体育の授業中らしい生徒たちの声と、蝉の声が聞こえている。
 退屈だな、と感じた。今の授業もそうだけど、それだけではなくて、代わり映えのしない日々のくり返しに、わたしは飽き飽きしていたんだと思う。
 わたしの生活は、およそパターン化がなされていた。平日は、朝起きて、あの坂道を上って学校へ向かう。特におもしろくもない授業を受けたら、坂道を下って家に帰り、おやすみなさいだ。休日だって特にやることがないから、わたしは本を読むために学校の図書室へと向かう。もう少しで夏休みにはなるけれど、だからといってこの日常が大きく変化するとも思えなかった。
 だけどその一方――その退屈を求め、こうした状況を意図して作り出したのもまた、わたしなのだった。わたしは自分の心を乱されるのがイヤだったから、色々な方法で心の平穏を求め、その結果として、平穏という名の退屈を手にしたのだった。
 わたしの心を乱したもの。一つは、周囲の人たちだった。関わるたびに、迷い、不安になり、傷ついていく。そうしたことがツラくなって、いつしかわたしは必要以上の人間関係を持たなくなった。
 それから二つ目は「カオス」だった。周りのことが秩序立っていないと気が済まないわたしは、混沌を避けて、なるべく日常を単調化しようと試みた。そうしなくては、あまりにもこの世界は混沌とし過ぎていて、わたしの頭には重すぎた。
 それに、いずれにしても人間は退屈からは逃れられない、というのがわたしの考えだった。
 退屈から脱するためには新しいものに手を出す必要がある。そうすることで一時は退屈から逃れられるが、いずれそれにも飽きが来る。慣れてしまう。だからまた新しいものに手を出して、ということを延々くり返さなくてはならないのだ。それは一時的な脱却であって、根本的な解決にはなっていない。
 新しいものを次々消費していくよりも、一つのものをずっと大切にしたかった。ずっと大切にするに値するもの、そういったものを探していくのが好きだった。それは思い出の詰まった石であったり、大好きな本だったり、色々だ。それが生き物であることは決してなかった。生き物であるということは、永遠でないということと同義であるから。
 大切なものを少しずつ少しずつ増やしていって、それらといっしょに時を歩んでいきたい。それがわたしの望みだった。だから、そのための退屈なのだと思えば、わたしは容易く耐えられた。
 黒板を坦々と叩くチョークの音。退屈そうな生徒たち。蝉の声――。わたしは心持ち穏やかに、わたしの日常を眺めていた。
 代償なしに何かを得ることなどできはしない。わたしが求めたもの。退屈はそれへの対価だった。


 その日の帰り道のことだった。いつものように坂道を下り、家に向かって歩いていると、視界の端に鮮烈な赤色が飛び込んできた。あれは、動物の血――?
 大量の血を流しながら横たわっているその動物に、わたしはよく見覚えがあって。でも、そんなわけがないと、否定したい気持ちでいっぱいで。見たくない。でも確認しないわけにはいかない。わたしは、ゆっくりとその場所に向かっていく。
 あぁ、やっぱり――。


 それは間違いなく、わたしの知っているプランであった。
 プランの体に手を触れる。その体に、命の脈動を感じることはできなかった。消えかかっているプランの体温が、ほんのりと温かかった。
 その温もりを引金にプランとの思い出がわたしの中で溢れ返って、わたしは思わず泣いてしまった。車の通りがないとはいえ、道路の真ん中に崩れ落ちて。
 涙で歪んでいく世界。わたしは、これまで何度となく触れてきたプランの体を、長いこと長いこと撫でていた。

 ほどなくして、ようやく落ち着いたわたしは考える。プランに何があったのだろう。車にはねられでもしたのだろうか。外傷からは、とても判断できなかった。
 ともかくここは道の真ん中だ。車が来たらジャマになるし、ひとまず移動した方がいいのではないかと考えて、わたしはプランを腕に抱えた。白い制服に血がベットリとついたが、このさいそんなことはどうでもよかった。
 さて、どうしよう――。プランを抱えたままのわたしは、歩道で少々立ちつくす。
 プランは野良猫だ。少なくともわたしは、そうであると確信していた。そして、わたしにとってプランが大切な存在であったのと同程度に、プランもわたしのことを大切に思ってくれていたのではないかと、そのようなことを考えた。だから、わたしがプランを見送る役目を担ってもいいだろうと考えて、わたしの決心は固まった。プランをどこか、自然のたくさんあるところに埋めてあげよう。わたしはプランを抱えて歩き出した。
 不思議と誰にも会わなかった。紫がかった夕暮れの空が、わたしの心をザワつかせた。歩いても歩いても、プランを埋められそうな場所は見つからない。この町の自然のなさに、わたしは心底失望していた。
 プランの体は、どんどん重みを増していくようだった。わたしの歩みは遅くなっていく。わたしは一人、何故か突然笑えてきた。わたし、何やってるんだろう――。
 そうしてすっかり日は暮れた。あてもないままに彷徨ったあげく、わたしは自分の家の前に辿り着いてしまった。もう、すっかり疲れてしまった。駐車場に車が止まっていないのを確認して、わたしはプランとともに帰宅した。
 今日はたくさん歩いたな――。脱いだ制服を洗ったあと、わたしは自室のベッドに倒れ込んだ。
 ベッドの横には、バスタオルにくるまって眠るプランの姿がある。こうしてプランといっしょに生活するのを、わたしはずっと夢見ていた。うちでは飼えないとわかっていても、コッソリ連れてきてしまおうかとか、色々考えたりしたものだ。そのプランが今、わたしの隣で眠っていた。
「プラン。わたしの友だち……」
 プランだけが、わたしの話に耳を傾けてくれた。だからプランには何もかもを話した。悲しいときもツラいときも、それをプランと共有できたからやってこられた。そのプランがいなくなってしまった。わたしは強く、孤独を感じた。
 ベッドから手を伸ばして、プランの体に手を触れた。そこにいるのは確かにプランであるはずなのに、何かが決定的に欠けていた。冷たくなったプランの体。もうここにプランはいないのだと、わたしははっきり理解した。
 タオルケットにくるまって、わたしは夜遅くまで泣き続けた。生命の死、過ぎゆく時間、世界のあり方――。色々な考えが脳内をかき回して、ついには自分の無力を呪い叫んだ。
 そうしてわたしは、泣きに疲れて眠りに落ちた。

 夢の中、わたしはプランと話していた。どこか遠くへ行ってしまうプランを、わたしは必死に引き止めようとした。しかし、それは仕方のないことなのだとプランは何度も説明した。またいつか会えるよね、わたしのこと、いつまでも覚えていてくれるよね。わたしは涙ながらにプランに尋ねた。だけれどプランは、ただただ同じような口調で、「仕方ない」という言葉をくり返すだけなのだった。


 目を覚ましたわたしは、机の上の時計を見た。十時十分。完全に遅刻だ――。
 長い長い夜だった。同じような内容の夢をくり返し見ていた気がする。眠りはとても浅くって、あまり寝た気がしなかった。
 ボンヤリと昨日のことを思い出しながら、ベッドの横のプランを見つめる。お父さんとお母さんは、たぶん帰ってないのだろう。そういう日は少なからずあったから、そのことについてはとりわけ何も思わなかった。
 わたしはノソノソと学校に行くための準備を始める。頭が重く、脳内はノイズが飛び交っているようだった。歯磨き一つとっても適当に済ますことのできないわたしは、その思考ノイズのためにうまく行動できなくて、そのためにいつもの数倍は準備に手間取ることとなった。
 いよいよ学校へ向かおうというときに、バスタオルの上で眠っているプランの姿が目に入った。
 どうしようかと思ったけど、わたしは急いで学校に向かわなくてはならなかったし、死んでしまった生き物は決して元には戻らないのだし、埋める場所など近所にはなく、たとえあったとしても、埋めたところで結局は微生物によって分解されるだけだと考えた。だからわたしは、スーパーでもらった白いビニール袋にその死体を入れて、一枚では不安だったからビニール袋で何重にもそれを包んで、それをゴミ置き場に持っていった。
 今日がちょうど、燃えるゴミの日で良かった。そんなふうに思いながら。

 学校に向かって歩いている。ただでさえ体調が良くないのに、それに加えて、いつにも増して強烈な日差しがわたしの体力を奪っていった。
 わたしは、いつもの坂を上り始める。人の影はなく、閑散とした坂道。
 足下を凝視しながら、わたしはプランの死を想っていた。
 命あるもの、みな等しく死が訪れる。そのことをわたしははっきり理解していたし、それはプランについても例外ではなく、いずれプランがいなくなるであろうことは前もって明確にわかりきっていたことだった。わかりきっていたはずなのに、プランの死を目の前に、わたしは涙を流したのだった。わたしは死を忘れていたのだろうか。今日と同じような明日が、これからもずっと続いていくと、わたしは楽観していたのだろうか――。
 そしてプランと同様に、わたしにもまた終わりのときは訪れるだろう。それは今日かもしれないし、明日かもしれないし、五十年後かもしれない。ともかくはっきりと言えることは、わたしの生は永遠ではないということだった。
 わたしの日常は、唐突に終わりを迎えるだろう。そして何も残りはしない。大切に集めてきたもの、大切に積み上げてきた過去、すべて消え去ってしまうのなら、一体何のために生きるのだろう。
 すべては無意味だ――。それはもはや、揺るぎない真理のように思われた。そして、その真理を認めた上で、わたしは選ばなくてはならなかった。無意味と知っていながら、そのような日々をくり返すのか。それとも自らの手で、無益な反復に終止符を打つのか。自殺という名の終止符を――。
 こういったことを考えすぎてしまうわたしは、ひょっとすると病気なのかもしれなかった。わたしが今のところ精神病でないのは、わたしがわざわざ精神科医のところに出向いていないからという、ただそれだけの理由なのだ。病人が「普通」の人のフリをしている。だとしたら、なんて滑稽なんだろう。きっと周りは気付いてる。あいつはどこか「普通」じゃない、と――。
 つまるところ、わたしは世界の異物だった。
 世界を見つめるこの〈私〉。それさえなければといつも思った。「楯川涼理」が消えてしまったら、悲しむ人がいるかもしれない。だけど〈私〉が消えて悲しむ人は誰一人としていないのだ。だって、世界を眺めるこの〈私〉について何かを知っている他人は誰一人としていないのだから。誰からも必要とされず、「楯川涼理」の足を引っ張ることしかできない〈私〉。消えてしまえ!

 わたしは――。
 坂道を上りきり、坂の上で立ち止まった。
 あまりの暑さに、尋常じゃない量の汗が全身を流れていた。一滴の涙が目蓋からこぼれ落ちて、汗に混じった。
 わたしは、空を見上げた。
 突如、はげしい目眩に襲われて、わたしは意識を失いそうになった。歪んでいく世界。目の前が真っ白に染まっていく――。

 失われていく意識の中。
 このままずっと眠り続けたいと、わたしは強く願っていた。
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