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二人の少女のための協奏曲。
 眠れない夜――。またか、と思いつつ、わたしは少々諦め気味だ。
 こういうとき、無理に眠ろうとしても、ムダだと思う。眠らなければならないと焦れば焦るほど、精神は昂ぶり、眠りからは遠ざかる。少なくとも、横になっているだけで体は休まっているのだから、それでよしと思わなくてはならない。
 わたしの脳裏にあったのは史佳のことだった。
 わたしたちは仲良くなった。いつの間にか。だけど、もし何か、きっかけがあったのだとしたら、おそらくあの日になるのだろう。
 わたしは、目を瞑りながら、あの日のことを思い出す――。

 史佳に初めて会った日の、その翌日のことだった。
 わたしは、何か目的があったでもなく、何となしに屋上を訪れた。扉を開けると、そこには先客があった。
「名前、何て言うんですか? わたし、楯川涼理」
 ぎこちなく敬語のわたしだった。
「わたしは蓬山史佳(よもやま・ふみか)。ちなみに十六才だよ」
「あっ、わたしも十六だ」
 ちょっとビックリ。
「同い年か!」
 彼女は、わたしの手を取り、振り回した。彼女なりの握手だろうと、わたしは好意的に受け取った。
「涼理は、どうして入院してるの?」
「ちょっと頭を打っただけ」
 わたしは答えた。
「ふぅん、そうなんだ。どこかで転んだ?」
「太陽が、眩しかったから……」
「どこのムルソーさんだよ!?」
 彼女のツッコミは速かった。
「日射病……。それからたぶん、疲れてたんだと思う。前の日に、ネコが亡くなって、その子を埋めてあげるために、町を歩き回っていたから」
 わたしは、その日のことを彼女に話した。わたしの口は、ふさがらなかった。
「生きてる以上、いずれみんな死んでしまう。それは、プランも同じ。わたしは、それをわかった上で、プランと仲良くしていた。いつプランがいなくなってもかまわないって思いながら、プランと付き合ってたつもりだったの。プランが死んでしまっても、翌日にはキレイサッパリ忘れてしまって、何事もなかったかのように学校に行ける。そんな自分でいたかった。それなのに、いざ亡くなってみたら――」
 と、ここまで言ってみたところで、わたしは気付いた。これは言ってはいけないことだ――。
 こんなことを考えている人間と、果たして友だちになりたいと思うだろうか。思わないだろう。
 知り合って早々、嫌われてしまっただろうか。わたしは、恐る恐る、彼女の顔色をうかがう――。
 彼女は笑っていた。それも、見下したりバカにしたりといった笑いではなく、もっと何か好意的な――。
「涼理は、ネコが好きなんだ?」
「うん……。史佳ちゃんは?」
「わたしのこと、史佳でいいよ」
 と、彼女。わたしは「わかった」と口にした。
 すると、彼女はわたしの手を握った。それが突然のことだったので、わたしはビクッとしてしまった。
「史佳って呼んで!」
「ふ、ふみか……」
 彼女は、満足そうに笑って、わたしの手を解放した。
「これからよろしくね、涼理!」
 そう言って、彼女は院内に戻っていった。
 と思いきや、こちらを振り返り――。
「ちなみに私は、ネコ、あまり好きじゃないんだ!」
 と言い捨てて、今度こそ彼女は去っていった。
 わたしの手中には、彼女の手のひらの感触と、その温もりが残っていた。
 熱かった、彼女の体温――。

 その日から、史佳は毎日、わたしの部屋へやってきた。
 同い年であったことか、それとも、気の合う何かを感じたのか。
 史佳の心はわからないけど、兎にも角にもその日から、わたしたちの何かが始まったのだった。


「なにこれ……」
 屋上の扉を開けると、そこに広がっていた光景は――。
「夏と言えば、やっぱりプール! ということで、用意しました!」
 ビニールのプールが設置されていた。しかも、けっこう大きい。準備よく、すでに水も張ってある。
「また、こういうことすると、怒られるよ……?」
 と、わたし。すると、わたしの反応が良くなかったためか、史佳は少々不満げだ。
「あのねー。いちいち、これやったら怒られるかなぁとか考えてたら、何もやれなくなっちゃうよ。怒られたら、何だってんだ! そのぐらいの気持ちでいなくっちゃ」
 言われて、そうかもしれないと思ってしまうわたしだった。
 他人からどう思われるかということを気にしすぎなのだ。少しは史佳を見習うべきかもしれないな。
「でも、わたし、水着を持っていないんだ。ごめんね」
 家にあったかもしれないが、お父さんも、まさか病院で水着を使うことになろうとは、夢にも思わなかっただろう。
 が、わたしの言葉を聞いてなお、ニッコリ笑っている史佳。まさか――。
「じゃーん! そんなこともあろうかと、涼理に水着をプレゼント!」
「あ、ありがとう……」
 史佳の準備に抜けはなかった。こういうところ、マメというか何というか――。
 わたしは、水色の水着を見つめながら、一つ覚悟を決めるのだった。

 さて、着替えた。
 ほとんど学校の水着しか着ることのなかったわたしは、面積の小さい水着に戸惑った。一方、史佳は流石、堂々としている。ピンク色の水着。とても似合っていると思う。
「冷たっ!」
 ボーッとしてたら水を掛けられた。プールの中で、史佳が笑っている。冷たくて心臓が止まりそうだ!
「まっ……。ちょっと待って!!」
 ほとんど叫ぶようだったが、史佳はまったく容赦なかった。
 それでもじきに冷たさに慣れる。今度はわたしの反撃だ。
 バシャバシャやっていると、目に水が入ったらしい史佳。「タイム」発言をくり返すその口めがけて、わたしは水の追撃を行う。史佳はどこかへ逃げていった。一矢報いた感があった。
 と思いきや、史佳はホースを持ってきて、わたしに向かって激しい攻撃! わたしは、イヤというほど水を掛けられた。
 はねた水がキラキラと、視界が輝いて見えている。水の掛け合いだなんて、いつ以来だろう。夏の日差しで火照った体に、水がとても心地良かった。
 そのあとは、二人プールでマッタリしていた。史佳は、ひっきりなしに何かを話し、わたしはそれに相づちを打った。史佳の、溢れ出るような生命を、わたしはひしと感じていた。
「わたし……」
「ん?」
「実は、ほとんど泳げないんだ。だからプールの時間とか、あまり楽しい記憶がなくって」
「あはは、何となくそんな気がした!」
 さりげなく失礼なことを言われた気がしないでもなかったが、わたしは続ける。
「だけど、今日はとても楽しかった。だから、ありがと……」
 それを聞いて、史佳は笑った。
「そうだ! 今度二人で海行こうよ」
 と、史佳。
「でも、わたし泳げないから……」
「そんなの大丈夫だよ。すぐ泳げるようになるって!」
 と言って、史佳はわたしの肩を叩く。何故かわからないけれど、史佳がそう言うなら大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「わかった。今度、行こうね」
 わたしは、そう言って笑った。うまく笑えたかどうか、わからなかったけど。

 つかの間の、心地良い静寂――。
 それを破ったのは、屋上の扉の音だった。誰かが屋上にやって来た!
 扉の方を見ると、タバコの箱を片手に、フリーズしている谷川さん。
「わぁーっ! 出てけ!!」
 ホースを掴み、扉に向かって放水する史佳。谷川さんは、扉の向こうへ退散した。向こうで「ごめん!」と声が聞こえた。
 ホース片手に仁王立ち、肩を怒らす史佳だった。水着を見られるのがイヤだったのかな。
 それにしても、屋上にいる史佳が「出ていけ」って言うのは、何だかちょっとおかしいな。
 そんなどうでもいいことを考えて、怒りふっとうの史佳の横、わたしは一人笑っていた。


 翌日。朝の四時ごろ目覚めてしまった。トイレに行ったらスッカリ目が覚めてしまったので、わたしは早々と着替えを済ませた。
 しかし早起きしたところですることもなく、本を読もうという気にもならなかったため、飽きずに院内をうろついていた。
 外の風に当たりたくて、わたしはロビーから庭へ出る。朝は少し涼しい。シンと、張りつめた静寂が広がっている。
 一度外の空気に当たると、散歩に出たい気持ちがフツフツ出てきて、散歩に出掛けることにした。朝の町は、いつもと違った表情をわたしに見せて、その非日常性に、わたしの心は弾む。

 昨日の夜から考えていたこと。
 それは、もうウジウジとネガティブ思考をするのはやめよう、ということだった。
 眠れない夜、わたしは選択を迫られる。生きるか死ぬかの選択だ。そこで今まで何度となく「生きる」を選んできたからこそ、わたしは現在生きている。
 これからも、生きるか死ぬかの選択を定期的に行っていくことだろう。その中で、死にたくなる日もあるだろう。だけど、「何だかんだ考えつつ」これまで生きてきたのだし、これからも、やっぱり「何だかんだ考えつつ」生きていくのかもしれないのだ。それは十分に考えられることだった。
 わたしは現に生きている。生きている以上、その生をより良いものにしようと努めること。これが、わたしの出した、とりあえずの結論だった。
 そんなことを考えるなか。一つ、気付いたことがあった。それは、「生きるか死ぬかの選択は、クイズでマルかバツかを選ぶような、そういった選択とは少し種類が違うのではないか」ということだった。
 例えば「死」を選んだ場合、わたしは、何らかの方法で自殺をしようとするだろう。つまりこの場合、「死」という結果を得るために何らかの行為を行うことができて、それが結果に結びついたかどうか、明確にわかる。
 だけど「生」についてはどうだろう。わたしが「生」を選んだとして、そこからわたしは、何をすればいいのだろう――。
 何をする必要もない。だって、わたしはすでに生きているのだ。しいて言うなら、生活を営むことだろうか?
 ともかくこれが、生きることと死ぬことの、毛色の違いだ。
 「生」を肯定するために、「死」の否定を必要としていた。生きていることそれだけで、「生」を肯定できなかった。死にたくなった翌日には、「死」を否定して「生」を肯定したという事実のために、わたしは強く「生」を感じた。
 だけど、それではダメなのだ。その選択は対等じゃない。
 あいまいなまま、ありのまま。それでいいじゃないか。もっと動物的に生きるべきなのだ。
 動物には、「私」の概念がないという。そして、「私」と「生」ということは、切っても切りはなせない関係にある。「生」とは、この「私」があるということに他ならないのだし、「私」が消えることは、そのまま「死」を意味するだろう。動物に「私」がないのなら、動物は自分の「生」や「死」を知らないし、そういった意味での自殺というのもないだろう。
 「生」を感じられない人間は、「私」というものに疑問を抱く。不安になる。
 自殺を考え、それを否定し、「生」を肯定することで、人は「生」を確かめたいのだ。

 朝の町を歩きながら、わたしはそのようなことを考えていた。
 考えれば考えるほど、「私」というものが強固になってくような気がして、嫌気が差してきたけれど、やはり考えずにはいられなかった。
 わたしが何を思おうと、時間は絶えず流れていく。結果として、わたしは生活することになる。生きていく――。
 生きるということ。それだけならば、こんなにも簡単なことだ。
 それなのに、どうしてこんなに苦しいのか?


 史佳が来ない。
 いつもは、部屋で本など読んでいると、ノックもなしに扉を開けて、わたしを連れ出す史佳だったのだけど、今日はやけに静かであった。気になって、彼女の部屋に行ってみると、扉にはカギが掛かっている。外からカギを掛けることはできないから、史佳は中にいるのだろう。わたしは、ノックをしようと手を上げて――。
 思いとどまった。少しイイことを思いついたのだった。

 わたしの手には一本のロープ。わたしは、屋上の柵の外側に立っている。
 史佳と初めて会った日に、彼女がわたしにやったこと。部屋への無断侵入だ。それを、やり返してやろうという魂胆だった。
 ロープはすでに、柵の根元に結んである。しつこいぐらい念入りに結んだ。
 ロープの強度よし、柵の強度よし!
 ロープから手を放しさえしなければ、落ちることはないだろう。最悪、落ちたところで二階だから、大したことはなかろうと高を括っていたのだけど――。
「け、けっこう高いな……」
 わたしは、下を見下ろしながら呟く。風がビョウビョウと音を立てる。風にあおられ、左右にロープが揺れている。や、やっぱやめようかな――。
 しかしわたしは、自分を奮い立たせた。史佳にできたのだ。わたしにだってできる! なけなしの勇気をかき集めて、わたしは覚悟を決めたのだった。
 ロープをピンと張って、両手でしっかりと握る。屋上のフチから、少しずつ上体を傾けていく。
 正直、かなり怖い――。
 運動不足の腕が、プルプルと震えながら、悲鳴を上げているようだった。
 試行錯誤をしているうちにコツを体得したわたしは、どうにかこうにか、目的の部屋に到達した。わたしはソッと、部屋の中を覗き込む。
 史佳は――。
 ベッドの上で、体を丸めているように見えた。
 そして、ワンテンポ遅れて、わたしは気付いた。
 史佳は今、泣いている――。
 いつも強気な彼女からは、想像できないその姿。何があったのか、わからないけれど――。
 ここから見えるのは、震えている史佳の背中だ。目蓋から落ちる涙の雫を、わたしは脳裏に思い浮かべた。
 この場に入っていく勇気などなく、わたしは早々に立ち去ることにした。上に上れそうになかったから、わたしは同じ要領で、下へ下へと下りていった。
 早くロープを片付けなくては。史佳がロープに気付いたら、泣いているところをわたしに見られたと悟るだろう。それはイヤだと、わたしは思った。
 庭から玄関へ走り、階段を急いで上っていく。
 わたしの脳裏から、彼女の泣いている姿が消えてくれない。
 どうして? 一体どうして泣いているの?
 そんなことを聞く勇気など、わたしにはなかった。だから、それを見たことは、わたしだけの胸の内にしまっておこう。そう思った。
 口にされない彼女への問いが、わたしの中でグルグル渦を巻いている。


 今日も今日とて、眠ることのできないわたしだった。体は元気だったから、少し散歩でもしようかと思って、わたしは自室を出た。
 夜の医院を歩いていると、何もないと思っていた所に、部屋があるのを発見した。興味本位で、扉のノブに手を掛ける。
 部屋の中央には、一台の大きなグランドピアノ。それに、わたしの目を釘付けにしたのは、天井まで伸びて外景を大きく切り取るガラス窓、その向こうの空に見えた、夜の月だった。空には、雲がまばらに散らされて、その雲に月光があたり美しい陰影を作り出している。わたしはしばし時間を忘れて、そこで月を眺めていた。
 わたしは、近くのイスに腰掛ける。アンティークめいたイスのきしむ音が、夜の静寂に響き渡った。
 電気をつけるということは考えなかった。たぶん、月の光が明るかったからだ。

 わたしは一人、考える。わたしの問題とは、何なのか――。
 問題は山積みのように思われた。そして、その問題は、何が幹で、何が枝葉なのか、よくわからないようなところがあった。
 あらゆる問題を、一度に考えることはできない。ならばわたしは、一つ一つの問題を、そのつど丁寧に考えて、一歩でも多く、先へと進んでいこう。そうすることが、心の平穏への近道だ。
 ――と考えて、一つ眼前に浮かんだ問題。
 それは、「生きている実感」に関することだった。自らの生に、実感がなかった。
 わたしは今、生きている。というのは、生物学とか医学の視点だ。でも、やはり人間、ただ生命が維持されているだけでは「生きている実感」を抱くことができない。何か別の方法で、「実感」を獲得しなくてはならないのだ。
 思い出すのは、ここで寝たきりの生活を送っている老人のこと。
 彼は、ビジネスとしての成功を、生の目的として掲げていた。だから、それを達成できたとき、いわゆる生きがいを感じただろう。
 「生きがい」がないから、わたしは生を感じられない? その程度のことなのだろうか。
 わたしは本が好きだけど、それを仕事にするといったことを考えると、すこぶる嫌気が差してしまう。働くということに、何か抵抗を感じてしまって、果たして自分はそうまでして生きることを欲するのか、ということを思うのだ。本を読むのは好きだけど、それは、生きるモチベーションにつながる気配があまりなかった。
 もちろんわたしは、社会に出て働いたことなどない。だけど、「学校は社会の縮図」だなんて言うし、今も働いてるのと同じようなものだと思っている。さほどやりたくないけれど、やらざるを得ない、一種の労働のようなもの。将来的に働くことを考えると、それなりの学歴を持つ必要があって、ほとんどそのための学校だ。何かおかしいと思いつつも、社会のあり方に反抗していけるほどの勇気と気概を持たないわたしだ。大人しく従うだけ。中途半端な人間だ。
 ともかく――。どうして働くのかと言えば、そうしなければ生活ができないからだ。生きることができないからだ。
 つまり、生きるために労働をする。
 では、何のために生きるのか。そういうことを考えたとき、わたしの「好きなこと」が、その候補に挙がってくる。だけど、労働の苦痛と「好きなこと」を天秤にかけると、どう考えても、苦痛の方が重たく感じてならなかった。
 取るべき方向としては二つある。一つは、生をより良いものにする方向。もう一つは、苦痛を減らしていく方向。前者はプラスを増やすやり方で、後者はマイナスをゼロに近づけていくやり方だ。
 苦しいことは多いと思う。この世界で生きてる以上、苦痛を避けることはできない。ならば、楽しいことを作らなくてはならない。
 わたしが、この世の苦しみをスッカリ忘れてしまうぐらい、大きな大きな快楽を――。

 わたしはスッカリ消耗していた。考えても考えても、何かが解決したようには思えなかった。
 わたしは一人、項垂れる。このままわたしは一生涯、こうした答えのない問題を、捏ねくり回しながら生きてくのかもしれなかった。そして、あの老人のように、終末のベッドで思うのだ。これが、わたしの目的だった――。
 そのようなことを考えるとゾッとして、わたしは背中を震わせた。
 カチャリ、と扉の開く音。そこには――。
 赤いドレスに身を包んだ、史佳の姿。
「ど、どうしたの……?」
 わたしは聞いた。それを史佳は、上品にスルーしてみせた。ピアノの前へ歩みを進め、うやうやしく一礼。ピアノの椅子へ。
 史佳はピアノを弾き始めた。
 聞いたことのある曲だった。たぶんクラシックだ。子どもの頃、よくクラシックを聞いていた。そんなことを思い出す。
 わたしは目を閉じ、史佳の演奏に聴き入った。
 今まで考えていた色々のことが、ユルくほどけていき、体が軽くなっていく心地がした。
 過ぎ去っていく一音と一音の間に、わたしは、幼少の記憶を聞いた気がした。あの頃は、お父さんもお母さんも、ずっとわたしの側にいた。二人に抱かれているときの、言いようのない安心感を、二人の笑いを、まなざしを、わたしはそこに感じた気がした。


 ――そうして、演奏は終わった。
 とてつもなく長く、色々なものの詰まった時間のように、わたしには思えた。
 史佳は、ピアノの椅子から立ち上がり、上品な仕草でわたしに一礼。わたしはそれに拍手で応えた。
「とても良かった。ピアノ、上手なんだね」
「ありがと。小さい頃からやらされてたんだ」
 いつもの史佳らしく、ドカッと椅子に座り込んだ。足を組み組み。今までの彼女は、一体どこへ行ったやら。
「今のは、何ていう曲?」
「ドビュッシーの『月の光』だよ」
 史佳は、窓から見える月を指さす。
「今日の月夜にピッタリかなって」
 若干、したり顔の史佳であった。
「それにしても、どうしてここへ?」
「うん。廊下を歩く音が聞こえたからさ。何となく、涼理かなぁと思って、追いかけてみたんだ。そしたら何か、落ち込んでるみたいだったから。ピアノでもどうかなと思って」
「そうなんだ……」
 わたしは、自室で泣いていた史佳の姿を、思い出さずにはいられなかった。史佳だって、何か苦しんでいたに違いないのだ。それなのに、悩んでいるわたしの姿を見つけて、励まそうとしてくれた――。
 史佳は強いな。そう思った。
 史佳みたいになりたいな。わたしに欠けているものを、彼女はたくさん持っている。そんな気がして、わたしは彼女が眩しかった。
「わたしもピアノ、弾けるかな……」
 わたしの口から、そんな言葉がポロッと出てきた。
「弾ける弾ける。始めはうまくいかないと思うけど、涼理は、何だかんだでしつこい性格してるし、そういうの向いてると思うよ」
 と言って、悪意のない笑顔を見せる。わたし、しつこいのかな――?
 史佳がゆっくり立ち上がったから、わたしも立ち上がる。もうスッカリ真夜中だ。いつもなら、夜更かしなんてしないわたしだけれど、この病院生活、明日に何があるでもないのだ。
 素晴らしい一夜。それは、夜更かしの恩恵だ。
 「いけないこと」から得られるものはたくさんある。そのようなことを、今日わたしは学んだのだった。
 何せ、わたしは――。
 真夜中の月が、星々が、こんなに明るいだなんて、今まで知りもしなかった。
「ところで……。何で史佳はドレスなの?」
「演出だよ! もう、いちいちツッコむなよ!」
 史佳は何故か、恥ずかしそうにしている。すごい今更な気がするけど――。
 服のポケットに手を入れると、わたしのケータイが指に当たった。ちなみにガラパゴスケータイだ。
 わたしは――。
 カメラアプリを起動して、わたしの前を歩いている史佳のドレス姿を撮影した。
「あーっ! 撮ったな!!」
 耳ざとく、それに気がつく史佳。
 わたしは逃げた。
 走るのは、すこぶる遅いわたしだったけど、ドレス姿の史佳よりは速かったようだ。わたしは無事、自室に逃げ帰ることに成功した。
 カギをしめる。
 部屋の扉が、ドンドンとうるさく鳴っていた。

 翌日。
 史佳とわたしは、夜中にうるさくしたために、山本医師に呼び出され、小一時間のお説教を受けた。
 隣で史佳がヘラヘラしていたから、その様子に、わたしも思わず笑ってしまった。
 当然ながら、そのことについても、わたしは怒られることとなったのだけど。


「どうしたの? 元気ないね」
 史佳と屋上にいるときに、わたしはそのように言われてしまった。
 心と体が、切りはなされるような感覚に見舞われていたのだ。〈私〉、すなわち世界を認識しているこの〈私〉が、楯川涼理という「体」を客観視している。そのため〈私〉からしてみれば、体はもはや、ただの物質でしかない。肉でしかない。そんな感覚――。
 これは、そう、あの坂道を上っていくときの感覚に、とてもよく似ていた。心を体から遠ざけることで、苦痛を遠ざけようと試みた。その感覚は、最近意図せずやってきて、望んでもいないときに世界と〈私〉を切りはなすのだった。
 これはおそらく、わたし一人の問題だ。今まで、こういった類いのことを誰かに話して、共感を得た例しがない。
 だけど一方で、史佳ならわかってくれるのではないかという、一縷の希望を抱いていた。
 話してみてもいいかもしれない。そう思った。
「わたし、最近、自分の体が自分じゃないように感じられるときがあって……。変なこと言うようだけど……。わたしの心は、わたしの体っていう檻の中に閉じ込められてて、わたしは間接的にしか、外の世界と関わることができないの。それに何だか……。わたしが、自分の体を意図して動かしているっていうのも、ウソなんじゃないかって気がしてしまって……」
 たどたどしくも、自分の抱いている問題を、史佳に伝えようと試みた。
 笑われるかもしれない。そう思っていたけれど、史佳は、わたしの話を真面目に受け取ってくれた。
「そうだなぁ……。涼理はさ、自分の心とかそういったものに、重きを置きすぎてるんじゃないかな。心と体、それってどっちも涼理でしょ?」
 と言って、わたしの肩を叩く。しかし、知覚はどこか、ボンヤリとしている――。
 本当に、そうなのかな。一体どこまで、わたしなのか。
「わたしにとって重要なのは……。わたしが苦しいとか、わたしが楽しいとか、そういうことなんだと思う。それを踏まえて、苦しいからやめようとか、楽しいからやろうとか、そういうことを考えてる。だから、心がわたしだって思う。史佳は違う?」
「それは、私も涼理と同じだけど……」
 うーん、と考え込む史佳。
「涼理の言う〈私〉っていうのは、形のある「物」ではないよね。私たちの体は物だけど、心とかは物じゃない。物でないものが、物である私たちの体に、何かを働きかけるというのは、物理法則じゃ説明できない。心は脳のプロセスの中で生じるものであって、いわゆる「心」から体に、何かを働きかけることはできない、なんて言うね。もし、その通りだとするなら、〈私〉が意図して体を動かすというのは、間違いってことになる」
 と、史佳。
「もし、史佳の言うことが正しいのだとしたら、わたしの意志で何かを変えたりなんてこと、できないってことになる。檻の中の〈私〉には、何一つできることなんてなくって、ただ、体が動いているのを、見てることしか……」
 わたしは、ほとんど独り言のように呟いていた。
 〈私〉は無力だ。そして〈私〉は、その檻の中で、たった一人きりなのだ。誰とも触れ合うことのできない檻。その中で〈私〉は一生涯、暮らしていかなくてはならない――。
 しかし、わたしの言葉に、史佳は否定の意を示した。
「確かに、心と脳の関係は、そうだと思う。例えば、ベンジャミン・リベットっていう人も、意識は脳に遅れて生じるんだ、みたいなことを言ってる。だけど、だからといって、人の意志を否定することにはつながらないと、私は思うな。現に私には、何かを意志してるっていう実感がある」
 実感――。
 その言葉が、わたしの耳の奥底で、不快に響いていた。
「それって、信じたいから信じている、ってだけじゃないかな……。神を信じたいから信じるのと同じで……」
 と、わたし。しかし史佳は言った。
「信じたいってよりは、確信かな。私にとっては、科学がどうこうっていうよりも、自分の中の確信の方が、ずっと確かなことだから」

 わたしが考え込んでしまったために、話はそこで打ち止めになった。
 わたしは何か、腑に落ちないものを感じていた。史佳には、わたしの問題が伝わっていない――。
 だけど、どういう言葉を連ねたら、史佳にわかってもらえるのか、わたしにはサッパリだった。何せ、わたし自身、問題を理解し切れていないのだ。
 人と共有できない問題は、たった一人で克服しなければならない。この問題も、そういった類いの問題のように思われた。
 わたしは一人、手を開いては握り、開いては握り、ということをくり返す――。
 わたしが「握ろう」と思って、わたしの体が反応する。そのようにわたしは思い込んでいた。
 だけど、じっさいは、わたしの体がまず動き、それに合わせて、わたしが意図したのだという「思い込み」が、脳によって生成される――。
 〈私〉は、本日限りをもって、楯川涼理の体を動かすパイロットから、檻の中で何の自由も与えられていない囚人へと、格下げされてしまったのだった。
 開いたり閉じたりをくり返す、自分の手を見つめている。――いや、そのようなイメージを見せられているのだ。そのような知覚が、意図せず〈私〉に流れ込む。〈私〉は何もなしえない。
 では、〈私〉の価値とは何だ?
 この〈私〉が、嬉しいとか悲しいとか思ったところで、世界には何の関係もないことだ。そしてそれは、楯川涼理という個人にとっても。
 〈私〉さえ良ければ、それでいいか?
 だけれど〈私〉は、自分がただの囚人であるということに、こうして気付いてしまったのだ。どうして「良し」と言えようか。
 ――それに、こんなふうに考えることすら、脳の産物に過ぎないのだ。もう、何もかもがムダな足掻きであり、わたしの一人芝居であった。
 史佳が〈私〉でないように、街中ですれ違う人々が〈私〉でないように、楯川涼理が〈私〉でない世界。
 世界がそうでなかったことを、今ほど呪ったことはなかった。
 どうして――。
 どうしてこんな世界に生まれてきてしまったんだろう。


「はい、すずり!」
 史佳の差し出したタイ焼きを、わたしは両手で受け取った。
 ここは近所の商店街。わたしたち二人はヒマ潰しがてら、ここで買い物を楽しんでいた。
 といっても、わたしたちは店を冷やかして回るだけで、結局何も買わなかった。見ているだけで、少なくともわたしは、十二分に楽しめたのだ。
 いざ帰ろうというところで、今川焼きのお店を見つけて、わたしたちはそれを購入することにした。商店街へのせめてもの貢献、というには、ささやかすぎる貢献だけど。
 史佳はクリームの今川焼き。わたしはスタンダードなタイ焼きだ。わたしたちは、それらをパクつきながら、帰りの道へとついていた。
 いつものことではあるけれど、史佳はとても良く喋った。
 だからだろうか、たまに史佳が黙ったりすると、わたしは、形容しがたい不安に襲われることがままあった。
 そして、このときも――。
 わたしは史佳の先を歩いていた。ふと気がつくと、史佳の声が聞こえない。わたしはちょっと不安になって、今来た道を振り返る。
 すると、十メートル程向こうに、史佳が倒れているではないか! わたしは史佳のもとへ走った。
「史佳! どうしたの?」
 苦しそうな表情で、うめき声を上げている。
 どうしたんだろう。持病が悪化したのだろうか。とはいえ、史佳の病気のことをわたしは一度も聞いたことがなく、彼女がどうして苦しんでいるのか、いまいち判然としなかった。
 そのとき、わたしは何故か、彼女の口から放り出された今川焼きのことが気になっていた。道に転がり、クリームのところに砂がビッシリとくっついている今川焼き。
 落ちたものは、拾わなくてはならない。公共の道なら尚更のこと。
 史佳、どうしたの? 史佳の今川焼き、落ちてるよ――?
 再び、史佳のうめき声。わたしはハッと我に返る。
 こういうとき、どうすればいいのだろう。わたしは迷う。
 救急車を呼ぶ? でも、わたしは今、ケータイを持っていない。
 そもそも、そんなにおおげさなことなのか? わたしは思った。本当は大したことではなくって、それなのに救急車など呼んでしまって、恥ずかしい思いをしている自分――。そんな未来が脳裏に浮かんだ。
 他に誰かいないのか? 周りを見回してみるも、人の姿は見当たらなかった。
 色々と考えた末、史佳を背負って、病院まで歩くことにした。大丈夫、そんなに遠くはないだろう。
 口の中が甘かった。そのことが、この深刻な状況を、どこか茶番めいたもののように感じさせた。これは史佳のイタズラで、今にも彼女は立ち上がってわたしのことを笑うんじゃないかと、そんな気がしてならなかった。
 わたしは、道の今川焼きを見つめている。少し迷ったのち、口にくわえたタイ焼きを、史佳の今川焼きの隣に置いた。史佳が苦しんでいるときに、タイ焼きを食べている場合ではないし、持っていてはジャマになるから。
「史佳、大丈夫? 背中に乗って」
 史佳は、わたしの背中に、弱々しくしがみついた。重くて動けなかったらどうしようかと思ったけど、思いの外、大丈夫そうだ。
 わたしは、病院に向かって歩き出した。
 喘ぐ史佳を背負いながら、わたしは、タイ焼きと今川焼きのことを考えていた。
 片付けなくてはならないものを、そのままに放置してしまった不快感が、ずっとわたしにつきまとっている。

 わたしは今、史佳の病状について、医師から説明を受けている。
 山本医師は専門的なことを色々話していたようだけど、わたしはそれを、あまり聞いてはいなかった。雨が降ってきたようで、雨が木々の葉っぱを叩く音ばかりが、わたしの耳にうるさく聞こえた。
 史佳を背負って歩いたためか、スッカリ疲れてしまったようで、わたしはもう、自分の部屋に戻って、グッスリ眠ってしまいたかったのだ。
 ともかく、彼女の病状が悪化したということだけは、はっきりした。普段は元気すぎるためにあまり意識されないことであったが、やはり彼女もまた、この病院の入院患者なのだ。そして、彼女の抱えている病気は、わたしの頭のことなどとは比べものにならないほど深刻なものなのだと、わたしは理解した。
「史佳は、死んでしまうのですか?」
 わたしは彼に尋ねた。何となく、イヤな予感がしたから――。
 わたしの言葉を聞いて、彼は色々なことを話した。しかし結局、彼がその質問に対して、イエスかノーかをはっきり答えることはなかった。

 わたしは自分の部屋へ向かう。
 その途中、老人の部屋の扉が開いていることに気がついた。
「こんにちは……」
「あぁ、こんにちは。どうしたんだね、だいぶ元気がないように見える」
 そんなに顔に出ているだろうか――。
 わたしは、彼に聞いてみる。
「史佳は、死んでしまうのですか?」
 すると、彼は手招きをして、わたしを自分の近くに寄らせる。彼は小声で話す。
「おそらくは、そうだ。私の聞いた話では、病状はかなり悪化していて、回復の見込みは、ほとんど皆無に等しいらしい……」
 やはり、そうか――。
 「やはり」とは何だろう。でも、何となくそんな気がしていたのだ。「虫の知らせ」というやつだろうか。
 わたしは老人に礼を言い、彼の部屋をあとにした。
「何にせよ、後悔のないようにすることだ」
 わたしの背中で、彼は言った。
 もちろん、そうするつもりだ。わたしは思う。
 そもそも、死ぬと決まったところで、何が変わるというのだろう。
 人間、遅かれ早かれ、みんな死んでしまうのだ。そして、人生の重みは時間で量れるものではないのだ。
 史佳が近いうちに死んでしまう。だから何だというんだ! わたしは自分に言い聞かせていた。
 体がとても重かった。ヨロヨロとベッドへ近づいて、わたしはベッドに崩れ落ちた。


 史佳と話がしたかった。わたしは何度も史佳の部屋を訪れたが、その日、史佳が目を覚ますことは一度としてなかった。
 次の日は大雨で、そのドンヨリとした天候は、わたしの暗く沈んだ気持ちに拍車を掛けた。
 わたしは、自室のベッドで、何をするでもなく布団にくるまりジッとしている。
 史佳のいない一日は、とても長く感じられた。何をしようという気にもなれず、だからといって、昼から眠る気にもなれず、わたしは史佳の目覚めを待っている。
 いなくなって初めて、その大切さに気付いた。ようやくできた友だちだった。それなのに――。
 だが、失われることばかり考えて、くさっていても仕方がない。ポジティブであろうと決めたじゃないか。
 そのポジティブというのは、「いずれ死んでしまう」という事実から目を逸らすことではない。メメント・モリ(死を忘れるな)!
 その事実を受け入れた上で、過度に悲観的にならないで、わたしにできることを考えよう。このわたしにできること――。
 史佳はまだ、死んでしまったわけではないのだ。目を覚まさないだけで、もちろん息はしているし、触ればちゃんと温かい。
 少なくとも今は生きている。なら、今まで通り、楽しくやっていけるんじゃなかろうか。今まで通りに接すること。それが、わたしにできることだ。
 そう考えると、体に元気が戻ってきて、わたしはベッドから立ち上がることに成功した。
 よし、史佳の部屋に行こう。

 現実は、わたしが思っていたより、ずっと深刻なものだったのかもしれない。
 史佳の部屋に近づいていくと、部屋の中から、史佳の苦痛の叫び、それからおそらくは山本医師であろうが、それの対処にバタバタと動き回っている音とが、聞こえてきたのだった。
 胸の辺りが痛くなった。部屋に入っていく勇気が出なくて、わたしは扉に背を向けた。
 マラソンのゴールは祝福されるものだけど、人生のゴールは、こんなにも悲哀に満ちている。生まれたときは祝福されたのかもしれないが、その誕生には、死という悲哀がくっついていた。
 生まれることがなければ、死ぬこともなかったのに。そんなことを考える。
 耳の中で、史佳の叫びがくり返されている。

 何だかんだで、眠ってしまっていたらしい。外を見ると、雨は上がっているようで、雲の切れ間からは日の光が見えている。
 ボンヤリとした頭のまま、わたしは史佳の部屋へ向かった。廊下は白くぼやけて見えて、ひょっとするとここは夢なのかしらんという気になってくる。やけに静かであるし――。
 わたしは頬をつねってみた。痛かった――。けれど、その痛さすらも、ボンヤリしていて不確かだった。
 わたしは、史佳の部屋の扉を開けた。
 そこには、ベッドに身を起こした史佳の姿。彼女はとても落ち着いているように見えた。
「史佳。大丈夫……?」
「ごめん。なんか、心配かけたよね。ちょっとした持病なんだ。別に大したことはないんだよ」
 史佳は笑って言う。その笑顔が、どこか無理をしている気がして、わたしは見ていてツラかった。
「わたし――」
 あの老人から、史佳のことを聞いてしまったと、伝えておきたかった。しかし、史佳が何か言い出したので、わたしは言葉を引っ込めた。
「明日、海に行かない? ほら、前にプールやったときに、話したじゃん。今度、海に行こうよって」
「でも、体は……?」
「大丈夫大丈夫! これ、良くあることなんだ。涼理は心配しすぎだよ」
 そう言って、史佳はわたしの手を握る。
 わたしは、迷った。
 わたしには、史佳の体が、どの程度危険で、どの程度大丈夫なのか、ということがわからなかった。だけど、あの老人の言葉を思い出す。「回復の見込みは、ほとんど皆無」だと。
 史佳にとって、ここで最期を迎えるのと、海で最期を迎えるのと、どっちが望ましいことなのだろう?
 ――いや、それはわたしが決めることではなく、史佳が決めることだ。史佳が行きたいと望むのなら、そうしよう。「後悔のないように」するために。
「わかった。行こう。明日の準備は、全部わたしがしておくから」
 史佳はこうして生きている。命の尽きるそのときまで、わたしは彼女の側にいよう。そう決めた。
 わたしは、史佳の手を握り返した。
 その手の温もりに、わたしは「命」を感じていた。
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